【武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所】研究動画シリーズ#009

「主観空間と客観空間の間における存在論的差異について」というタイトルでの研究発表です。

<補足として>
今回の研究所の研究動画で取り上げた、客観空間と主観空間との間の本質的な違いというヤツ、少しは皆さんにも伝わっただろうか。
私たちは普段、外の世界を見ていると思っているが、見えている世界は実は外ではなかった、という気づき。
この気づきがないことには、ヌーソロジーの思考はスタートを切ることができない。
「見えている世界は外」というのは私たちの常識でもあるから、ヌーソロジーのこうした主張に、それだけで思考停止状態に陥ってしまう人たちも多いのではないかと思う。
それだけ、私たちは外の世界、つまり、客観世界に根を張って、自分の認識する世界を組み上げているということだ。
そのような世界の認識の仕方を一度エポケー(判断停止)して下さい、ということ。この辺りはフッサールの現象学に似ている。
ただ、ヌーソロジーが現象学と根本的に違うところは、自分の3次元的な位置さえもエポケーするところ。
客観世界をエポケーするのであるから、3次元空間上の自分の目は存在しないも同然となることが分かる。というのも、3次元上にある自分の目は、三人称視点によって捉えられている物であるから。一人称視点では、ドゥルーズがいうように「眼とはスクリーン」となって現れていて、客観的な3次元の位置にいる「自分」という存在は消えてしまう。
それによって、現象の現前は、大森の言うように、不動の知覚正面としての”4次元的位置”へと変わるということ。
この位置の移動によって、客観世界としての4次元時空に対して、主観世界としての4次元空間(虚時間世界)というものが立ち上がり、動画でも紹介したように、そこに”存在論的差異”があることが了解されてくる。
ヌーソロジーでは、そこから、量子論との接合が始まっていくという筋書き。
その意味で、大森が直観した「面体分岐」の面と体の分岐とは、立方体の「体」と、その一つの「面」との分岐ではなく、3次元空間としての「体」と、知覚正面としての「面」との分岐として考えないといけない。
哲学をやっている人でも、この辺りの大森の真意を理解している人は少ないように思える。
つまり、私たちが、物の手前に感じ取っている自分の位置とは、本当は3次元的な手前ではなく、4次元的な手前になっているということなんだね。
とにかく、見られているものの空間と見ているものの空間を3次元と4次元に分離させて考えることが必要だと思うよ。
その視点を獲得し、そこから4次元の思考が始まると、空間の見え方や物質の見え方も、大きく様変わりしてくる。
見えている世界は同じなんだけど、見え方がまったく変わるのね。
それはそれは、本当に素晴らしい世界。