6月 20 2005
講演会というもの
昨日は、久々の講演会だった。NPO法人の「福岡気功の会」という団体の年度総会にゲスト講演者として招かれたのだ。最近は、講演依頼が舞い込んでも全部お断りしていた。というのも、ヌースの話を一般の人に分かりやすく説明する、という行為に底知れない難しさを感じていたからである。今までの経験から言えば、一般向けには、どうしてわたしがこんな理論を作るのに一生懸命になっているのか、つまり、その動機についての話の方が好まれる。要は、発狂体験、チャネリング体験の話である。まぁ、確かにこれらの体験は強烈で、常識では考えられないような異次元話のオンパレードなので、聞き手も身を乗り出して、固唾をのんで、一心不乱に聞いてくれる。さらに言えば、自分自身が経験している話なので、感情移入も自然にできるし、話のリズムも取りやすい。結果、講演会は大盛り上がり、会場は爆笑、はたまた感涙アリの情動のロゴスの坩堝と化す。はっきり言えば、この手のネタ話に関する限り、あの夜回り先生の講演にだって負けない自信はあるのだ。事実、最初の頃は、そのネタで全国各地をいろいろと回り、あちこちから講演依頼が殺到していた。
しかし、しばらくして、体験を売りにして講演して回っている自分に嫌気がさしてくるようになった。わたしは漫談師ではない。そんな話をして観客を楽しませたところでそれが一体なんぼのもんや?という疑問が次第に襲ってくるようになったのだ。霊界の話。OCOTの話。オリオン星の話。動物や植物たちとのコミュニケーションの話。日蓮やイエスの話。そして、最後に出会った自称、神と名乗る「闇」の話。。。確かに、物語のネタとしてはそれらは面白い。しかし、自分のやっていることは他者にとってはもちろん娯楽であっていいのだが、自分の中で娯楽になどすることはできない。それは人生の中で唯一、生死を賭けた真剣さを持って取り組むべき作業でなければならない。
そのうち、わたしは体験主義とはキッパリと縁を切った。体験をいくら伝えてもそれらは一時的な共感か、もしくは、不可思議ネタでとどまるだけだ。消費されるだけの商品でしかない。Fuck!!である。それ以降、講演はあまりやらなくなった。自分で自分のしたい話だけをする、そういうわがままな場の方がヌース理論には合っている。そう考えて、いわゆる全国のヌースレクチャーを定期的に自身の手によって展開するという手法を取ったのだ。もちろん、理論の話は講演会のように客は集まらない。集客はあったに越したことはないが、別に啓蒙活動をしたいわけではないので、ヌース理論を面白いと思った人たちだけが集まってくれればそれでよい。今でもその考えは変わらない。自分のやりたいようにやる。それが一番である。
今回は講演の開催場所が地元の福岡であること、依頼者が日頃から懇意にしているY氏であることも手伝って、久々に講演というスタイルを取って話をしたのだが、やり終えた後の感想は、やはり私の話は講演には向いていないということ(笑)。少なくとも今回集まっていただいた聴衆の皆さんは全員、気功をやっている人たちだ。その意味で、一般の人よりは見えない世界についての興味はそれなりに持っている。しかし、それでもヌースの話は少し難しかったのだろう。。不覚にも、お年寄りと若者の何名かを熟睡させてしまった。。もっとも、これは通常のレクチャーでもよくあることなので、大して気にはならないのだが。。。
ヌースの話を分かりやすく、しかも、エキサイティングに、クオリティを保ったまま、お年寄りも若者も眠らせることなく、最低2時間ぐらいは話せるようになること。。それがわたしの今の一つの課題なのかもしれない。いやはや、大変である。
10月 10 2005
「知の欺瞞」
カフェネプでトーラス氏が話題にしていた「ウィングメーカー」を本屋に探しに行ったが見つからず、そのままふらふら科学哲学書のコーナーへ。以前から読まないといけない本としてリストに上げていたアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの書いた「知の欺瞞」を購入。
この「知の欺瞞」は、ヌース理論でもおなじみのドゥルーズ=ガタリ、ラカンを始め、クリステヴァやヴィリリオ、ボードリヤールといったポストモダン思想の論客たちの数理科学的知識の濫用、誤用を、専門の物理学者の立場から手厳しく批判した書として、数年前に欧米や日本で話題になった本である。この本の内容についてはインターネット関連の情報でちょくちょく見かけていたので、レベルはかなり異なるが、同じく数理科学的知識の濫用で、時折、やり玉に上がるヌース理論の展開にとっても無関係とは思えず、それなりに気になっていた本でもあった。
で、読んでみた感想だが、最高に笑える本である。これは言い換えれば「あちら版ト学会もの」だ。ト学会の連中と同じく、ソーカル=ブリクモンのコンビは予想していたほどガチガチの理科系頭ではなく、謙虚で、かつ、ギャグセンスがかなりいかした人物のような印象を持った。性格的には、少なくともラカンよりは好感が持てる。彼らのギャグセンスの精妙さは引用しないと分かってもらえないと思うので、長文になるが少し抜粋させてもらう。
まずはラカンの1960年のセミナーからの引用を挙げ、
このようにして、勃起性の器官は、それ自身としてではなく、また、心像としてでもなく、欲求された心像に欠けている部分として、快の享受を象徴することになる。また、それゆえ、この器官は、記号表現のの欠如の機能、つまり、(-1)に対する言表されたものの係数によってそれが修復する、快の享受の、前に述べられた意味作用の√-1と比肩しうるのである。(Lacan 1977b,pp.318-320、佐々木他訳 pp.334-336)
続いてこう記す。
正直にいって、われらが勃起性の器官が√-1と等価などといわれると心穏やかではいられない。映画「スリーパー」の中で脳を再プログラムされそうになって「おれの脳にさわるな、そいつはぼくの二番目にお気に入りの器官なんだ ! 」と抗うウッディ・アレンを思い出させる。
うーむ、かなり洗練されたギャグセンスである。しかし、ただ残念なことに、ソーカルには精神分析一般についての基礎知識が欠如しているように思われる。勃起というとすぐにもろオチンチンを想像するのは致し方ないことではあるが、ラカンがファルス(男根)と言えば、それは言語の機能のことであって、別に、実際のオチンチンのことなんかではない(まぁ、こんなことは知っているかもしれないが)。さらに、どうして言語機能に対してファルスという名称が与えられているかと言えば、そこには、古来よりユダヤ教の中に受け継がれている言葉と神の関係に関する対する深い洞察があるからなのだ。こうしたユダヤ的ロゴスの伝統が分からなければ、ラカンがここで何を語ろうとしているかなど、まず分からない。
ラカンの書く文章は、確かに、その博覧強記も手伝って、謎の呪文のように見えるときもある。しかし、何しろ相手はフロイトとソシュールを結合させた、無意識構造の語り部としては世界最強の達人なのである。それこそ、圧縮や隠喩や換喩はお家芸なのだ。それにここに引用されているセミナーでの講義内容も別に一般人向けに行っているものでもない。あくまでも精神分析に興味持つ生徒たちを相手にしたものだ。故意にナゾかけのように話し、その謎解きはそれぞれの出席者に任せる。そういったスタイルをとったところで何ら不思議はない。ラカン自身、「主人の語り」「大学の語り」「分析家の語り」「ヒステリーの語り」という四種類の言語の在り方を模索している。
その意味で、数学的知識の枠の中のみから、つまり、「大学の語り」の中からのみ、ラカンの数学的知識の濫用を批判してもあまり意味あることではないようにも思える。ドゥルーズ=ガタリもそうだったが、語り方自体、さらには書き方自体の中でも、彼らは自己同一性の解体作業を試みているのだ。科学が啓蒙を旨とする具体的説明の方法をとるのに対し、ポストモダンは啓蒙についてはあまり関心がない。すでに思考が旧い器から溢れているのである。
はてはて、ヌースはどっちの方法論を取るべきか。。未だ迷うところではあるが。ぶつぶつ。
By kohsen • 06_書籍・雑誌 • 9 • Tags: ドゥルーズ, フロイト, ユダヤ, ラカン, ロゴス