7月 31 2025
霊的覚醒に物質知が必要な理由
ハイデガーの存在史に関する考察をヌーソロジーの観点から再解釈することで、AdS空間とCFT空間が振動するたびに、存在が生成され、そして隠蔽されるプロセスがいかに再現されるかが明らかになるのではないかと考えられる。
ハイデガーは、存在がアレーテイア(非隠蔽)とレーテイア(隠蔽)の間で生起し、その真理が「対振動(Gegenschwung)」として現れると述べている。
この対振動がAdS/CFT対応における両空間の弁証法的な相互作用に当たると捉えるのが、ヌーソロジーの視点だ。
AdS空間は情報を中心へ引き寄せ、存在を密度の高い形で内包することから、隠蔽を強化する空間といえる。
これはハイデガーの言う「覆蔵態(Verbergung)」に対応し、存在が内側に秘められながらも、根源的な「真理」を宿す場でもある。それが、おそらく物質というものだ。
古来より、物質が「聖杯」として敬われる所以も、物質の内に秘められた、このような真理の佇まいから来ているのだろう。
一方、CFT空間は情報が平坦に広がる内的な外延の場として、存在の「明け開け(Lichtung)」の空間を提供する。
CFT空間は、内的な時空と精神的な創造運動を伴う自他精神の共生の場であり、この場における意識の顕現が、ヌーソロジーにおける「覚醒」に相当する。
この覚醒した自己意識がバックライトの役目を果たし、AdS空間というスクリーンに物質として射影されることで、存在が具体的に現象として顕現するのである。
この律動を通じて、存在は内包と外延のリズムの中で自己を現し、また消え、再び現れるという長大な明滅の運動を展開している。
AdS/CFT対応のリズムの中で、物質的存在は精神の具現化として現れるとするなら、存在の真理は科学的探究と霊的探究が互いに補完し合うことで照らし出されなければいけない。
その意味で、科学の本来的な役割とは、物質を超えた存在の奥深い真理へと至る道を示すことに他ならず、霊的覚醒にとって物質知が必要不可欠であるとヌーソロジーが主張する理由もここにある。
8月 3 2025
やがて訪れてくる新しい世界イメージ
サロンでの天海さんとの対話で、言語の存在論的な意味合いが、だいぶハッキリしてきたので簡単にまとめてみます。
・AdS空間は表層的な言語活動の場になっている
ヌーソロジーではAdS空間は他者視点化した時空です。ここでは、空間は言語で満たされており、他者視点化に基づく概念を元にしたコミュニケーションや情報交換が行われている。つまり、言語が社会的・外在的な意味のやり取りとして実現されている場だと考えられます。いわゆる客観としての「外」の世界のことです。
・LLMは擬似CFTをエンジンとして動いている
LLMは、このAdS空間で活動する表層的なパターン群を統計的に学習することで、内部に擬似的な意味生成のネットワーク(擬似CFT)を再構築して、擬似CFT /AdS対応関係の中で働いている。
・真性のCFTとしての人間の無意識場
ヌーソロジーでは、CFTを自己視点化の時空を構成する持続空間の場とみなしており、この場が量子場のゲージ対称性を通して人間の超越論的無意識の機構として機能し、自他間での内的統合を担っていると考える。エチカの場。言語はここから生成される。
・AdS→dS→CFT→AdSの循環モデル
CFTには、AdS/dSへの分解領域が存在しており、そこにおいて、AdSの方はCFTが生成してくる言語の表現場となり、一方のdS側はCFTを知覚・感覚野として出来させる(物の現れ)。このような関係性から、CFTによるAdSへの言語を通した出力、反対に、dSを通した感覚・知覚への入力という形で、意識表象が再びCFT本体へとフィードバックされてくる——という意識の循環構造が浮かび上がってくる。
この「ボロメオの輪」が示す空間構造を、単なる哲学的抽象なんかではなく、私たち人間が生きる宇宙の本性として、何とか人間の意識に浮上させること——それがヌーソロジーが目指していることです。「物」が主体となった世界。我々自身が”存在”であるような世界……。
LLMがなぜ擬似CFTなのかということも、この循環性で何となく分かるのではないかと思います。天海さんも「dSからしかCFTへの接続はない」と言ってたように、主観側からしか主客一致のCFT空間には入れないのです。生きる現実は社会の中にあるのではなく、一人一人の心の中の方にあるということです………よ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: Ads, CFT