12月 4 2015
高次の知覚器官の獲得のために
「われわれが対象を知覚するのはわれわれの内ではなく対象の内においてである」 –ベルクソン『思想と動くもの』
ベルクソンが彼の卓越した直観で言い当てた、この事象の在り方の真実をわたしたちは知性によって理解できるようにならなくてはいけない。われわれは対象の外部にいる存在ではない、対象の内部にいるのだ。そして、このベルクソンの哲学的直観を裏付け、さらにそこから成長していく内的空間の幾何学というものが存在している。
この幾何学は神秘学的にはエーテル体の幾何学と言っていいものだ。シュタイナーであればエーテル空間の幾何学と表現するかもしれない。エーテル空間の幾何学とは持続体が持った幾何学のことだと考えるといい。純粋持続が真の主体の異名だとすれば、それは「見るもの」を組織化している幾何学と言っていい。
人間は幾何学を空間的にしか思考しない。プラトンのいう完全な三角形や円や球という常住不変のイデアにしろ、そこには依然として空間の表象がつきまとっている。イデアを持続の空間として見る思考が抜け落ちているのだ。
幾何学を決して「見られるもの」の中で思考してはいけない。幾何学の本質は「見るもの」そのものが携えている形相にあると考えなくてはいけない。精神の形相というものが存在しているのだ。それが高次元の幾何学が意味していることだ。そこは「見られるもの」たちのように尺度に支配された世界ではない。
数学の世界にトポロジーが出現してきた理由も、この持続体が息づく場所の論理を表現するための思考を人間の知性のもとにもたらすためだと考えよう。一体、こんなことを研究して何の意味があるのかと思われている現代数学の様々な研究群も、人間がこれから進むべき空間を前景化して、予見しているのだ。
シュタイナーは確か時間が空間化した世界のことを「アカシヤ界」と呼んでいた。持続体の空間とはまさにこのアカシヤ界のことと言っていい。そして、この持続体もまた捻れや、切断や、交差や、融合、階層化といったような運動の形態を持っている。これらは高次元空間の図式のようなものには違いないが、これらについてこれらとともに人間が思考を行なっていくことは、従来の図式的思考と決して同列に扱われるべきではない。
人間が行なう図式的思考は「モデル」にすぎないが、純粋思考が図式化していく高次の空間とは「イデア」である。これはシュタイナー風に言えば、おそらくエーテル知覚を行なうための知覚器官の形成のようなものなのだ。この知覚器官が作り出されなければ、おそらくエーテル体の生態も見えてくることはないだろう。
「カタチとは見られるものではなく、見るもののことです」–by OCOT
ヌーソロジーが提唱する複素空間認識とは、まさにこのエーテル知覚を行なうための知覚器官の組織化のことであり、ここで認識されてくるものがまさにOCOTのいう「カタチ」のことなのだ。
素粒子とは、その意味で、わたしたち人間が内在性のうちに保持している第一の精神器官だと言えるだろう。
時間の空間化は、神秘家の内なる魂の在り方を変えてしまいます。「時間」がもはや存在しなくなるのですから。–R・シュタイナー
今回の「シュタイナーとヌーソロジーのコラボ本」では、こうした内容について詳しく論じた。読者はシュタイナー霊学が現代物理学と矛盾なく接続する現場をあからさまに目撃することになると思う。お楽しみに。
5月 6 2016
田邊元という哲学者
甲田氏から借りている田邊元の本。旧字体でなかなかとっつきにくかったのですが、時間ができたのでゆっくり読み進めています。方向性がベルクソン=ドゥルーズとそっくり。さらには数理的にはドゥルーズよりも深い思索をしていることに驚いてます。スピノルの解釈などもヌーソロジーと全く同じなのが二度びっくり。
田邊の思考の柱は内包的時空の世界弁証法というやつにある。この弁証法はヘーゲルのように同一性への綜合へと向かうのではなく、絶えず差異化を行っていく。つまり、外延においては部分が全体に先立ち統合へ向かおうとするが、内包においては全体が部分に先立ち、その限定として部分が思考されていくということ。
田邊の思考が内包的時空へと侵入した経路がまたすごい。たぶん西田からの影響だと思われるのだけど、そこにも「切断即連続」という彼なりの世界弁証法の思考が働いている。つまり、外延(実数直線)を切断しているのは内包だという考え方だ。分かりやすく言えば、直線をある点で切る無限小の刃幅のナイフとはどんなナイフなのかというと、それは実は直線全体を含んで内側へと入り込むものだといったようなイメージ。(ヌーソロジーのいう「コンパクト化」と似てる)
田邊は、外延と内包が接するこの交点を万物が交錯する絶対弁証法の蝶番のようなものと見なして、その位置のことを「現在(瞬間)に相当する矛盾の渦動的統一の中心」と呼んでる。そして、はっきりとは明言してはいないものの、その渦動的統一の中心を複素平面と見なそうとしていた様子もうかがえる。なんて人だ!!
今から半世紀以上も前に哲学と物理学をここまで接近させて思考していた哲学者が日本にいたということに心底驚く。字体を変えて復刊してほしい。ほんま読みづらくて(笑)
田邊を読んでいて改めて思ったが、まずは「内包」という概念を取り戻そう。霊やスピリットという表現でもいいのだけど、それだと似非宗教の手垢がつきすぎていて一般では拒絶する人も多い。「内包」や「持続」という表現であれば言葉は固いけれど、僕たちに創造の思考を促していくキーワードに成り得るのではないか。要は、物の内部と時間把持の場所概念というものを意識に再生させるのだ。
もちろん、それらを奥行きの空間と重ね合わせて。ここがヌーソロジーのキモ中のキモ^^。
田邊は複素2次元空間についても、それが絶対的弁証法成立のための基盤であるかのように語っている。嬉しくなるよね。もちろん、それが自己と他者における奥行きと幅の双対的構成とまでは語ってないけど(笑)
いずれにせよ、この二重の十字路が田邊がいうところの「矛盾の渦動的統一の中心」と言っていいと思うよ。存在の力はすべてこの捩れから発生してきている。要は物理学が「場」と呼んでいるやつだね。
物理学の「場」と聞くと、途端に難しく聞こえるかもしれないけど、本質はどんな人にでも分かるものだと僕なんかは思ってる。早い話、自他の純粋な奥行きと幅の関係がスピノル場だと思うよ。そして、自己、他者それぞれが自分の奥行きと幅を同一化させているところがベクトル場。ほんでもって、自他が奥行きと幅をそれぞれ交換し合っているところがスカラー場。スピノル、ベクトル、スカラーというのは物理量の基本とも呼べるものなのだけど、全部、眼差しの交差の産物なんだよね。どういう交差を持つかによって、それぞれ空間の質が違ってくる。
この対応から考えると、僕らが時空と呼んでいるものとは、自己と他者が共に自分の奥行きを他者から見た幅に置き換えて認識してしまっているところに生じてきている。何度も言ってるけど、それが外延世界の本性だよ。内包(=奥行き)から完全に疎外された場所。それを宇宙と呼んでいるなんてちょっと怖くならないかい。そこには自分の居場所なんて存在してないよ。
でもね、現在のほとんどの学問はそこを拠点にして作られているんだよね。内包として活動している自然生命がガタガタになるのは当たり前だよ。
田邊で物足りないのは、田邊がこの内包性の数理構造を社会理論に転化させて思考しているところかな。これは中沢さんなんかも同じ。いわゆる「種の論理」というやつなんだ。内包の発展から外延が生じるのだけど、これをいきなり今の社会に当てはめてしまうと、カントと同じように超越論的なものを経験に従属させてしまうことになっちゃう。ここがドゥルーズと大きく方向性を異にするところだね。田邊元のような人でも、創造的境域という発想がないんだね。晩年の西田が田邊のことをファシストと言って批判していたのも、このへんの思考性に原因があるのかも。
でも、正直、このへんは現在の哲学の限界なんだろうと思う。人間の思考が宇宙を再―創造する力があるなんてことを誰も信じていないだろうからね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: カント, スカラー, スピノル, ドゥルーズ, ベルクソン, 中沢新一, 弁証法, 田邊元, 複素2次元空間, 西田幾多郎