9月 27 2025
主観空間の正体について
あなたの「見る」という行為は、
本当はあなたの意志ではなく、
空間そのものがあなたに“見る位置”を与えている結果にすぎない。
そう考えたとき、
空間とは「外界の拡がり」ではなく、
「私であることの場所」そのものとなる。
主観空間とは、“私が見ている空間”ではない。
それは、“私という存在が形を取るための、見えない舞台装置”である。
それがわかったとき、
私たちは初めて、
「自己がどこから生まれているか」に触れはじめるのだ。
私は生まれてこの方、一歩も動いたことはない。
どうか、この表現が何を意味しているのか、しっかりと考えてほしい。
「動かない私が、すべてを動かしている」
なぜ私は、
どこへ行こうが、
何を見ようが、
“私”でいられるのか?
それは、
私が——
一歩も動いていないからだ。
身体は動く。
視界は変わる。
時間は流れる。
けれど、
そのすべての運動を、
私の内なる何かが、正確に“相殺”している。
私は、
動きながら、動いていない。
世界は、動きながら、私を不動のままにしている。
この逆写しの運動。
この、空間の中心でただ不動を守り続ける力。
それこそが、
「私が私である」ことを保証している。
それは、存在に打ち込まれた、
自己という名の楔(くさび)と言ってもいいものだ。
そして・・・
その逆写しの運動の正体こそが、
物理学が「ゲージ対称性」と呼んでいたものだった。
——それが見えたとき、
私は、文字通り、空間の中に溶け入った。
9月 29 2025
記憶の重なりと空間・時間の誕生
私たちが「記憶」と呼んでいるもの――それは実は、自己視点が“見ている”ものの代表格です。
でもより正確に言うならば、記憶は「自己視点が“見させている”像」なのかもしれません。
なぜなら、記憶は「どこからでも」思い出せるからです。場所を移動しても、時間が経過しても、記憶は不思議と私たちにずっと寄り添ってくれます。
この事実が示しているのは、記憶がどこかに保存されているのではなく、決して動くことのない“見る位置”があるからこそ、見えているということです。
この「動かない位置」――それが、”自己視点の“不動性”だと思ってください。
そして、ここが重要です。
自己視点においては、すべての記憶は重なっています。過去も未来も、出来事も関係も、まだ分かれる前の“重なり合った状態”として、そこに在るのです。
この重なりが、私たちが他者視点化していくことで、だんだんと“水平に”広がっていきます。そして、その広がりの中に、空間が生まれ、時間が流れ始めます。
つまり、時間や空間は最初から外にあったわけではないということです。 大元は、自己視点における記憶の重なりにこそあるのです。この重なりの場こそが「持続空間」です。
この先手-後手関係を取り違えてしまうと、私たちは“記憶”を「時間の結果」だと誤解してしまいます。
でも本当は逆です。
記憶の重なりのほうこそが先にあるものなのであり、そこから時間と空間が“ほどけて”くるのです。
ヌーソロジーは、この“ほどける前の状態”にこそ、本当の人間存在の秘密があると考えます。
そして、それに気づいたときに、世界を変える“視点の反転”が始まるのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0