5月 28 2025
ケイブコンパスとヘキサチューブル
空間は決して単なる「器」ではない。それは生きた持続の場であり、意識が自らを紡ぐなかで絶えず変容していく多様なリズムの集積なのだ。
ヌーソロジーが用いるヘキサチューブルやケイブコンパスが描き出すのは、まさにその生のリズムであり、意識と世界が共に奏でる壮大なシンフォニーである。
ヘキサチューブルの構造は、持続空間の多層性とその凝縮のプロセスを映し出している。次元観察子ψ1からψ14へと至る道筋は、空間が持続のなかで無限に自己を展開し、また畳み込んでいく様子を示している。
この展開は、単なる幾何学的な変化ではなく、自己の意識の波動が空間に送り込まれ、そこに他者と共に物質を生成していくという「表現の創造」そのものだ。
持続から物質的な空間の生成は、自己の意識の中で一つの「知覚のリズム」として統合され、互いに差異を刻むことで新たな現実を生み出していく。
ケイブコンパスは、ヘキサチューブルとはまた異なる視点を提示する。自己が空間の内部を知覚し、その知覚が他者側からの視点と重なり、再び自らに返ってくる。
空間はこのようにして自己意識の弁証法的な運動と共に、内側から変容し続ける。空間の本質とは、この絶え間ない変容、すなわち意識の持続がもたらす差異化の流れである。
この流れは、自己の内的視点がどのように持続のなかで位置を変え、他者との関係性のなかで自らの形を整えていくという、一つのダイナミズムを示している。
これら双方のダイアグラムは、空間を単なる物質的な広がりとしてではなく、意識がその持続のなかで刻む差異化の基本的に秩序を描き出している。
空間の本質は、他者との関係性の中で織り成されるその多層的なリズムである。ここで描かれる空間の創造は、まさに「存在の生」そのものの働きであり、物質と精神が互いに浸透し、結ばれる運動ととして生じているのだ。
ヘキサチューブルとケイブコンパス。それは、意識が空間を生き、空間が意識を育むという神の身体を支える骨である。
骨は響きを持つが、これら二つの構造体が持つ響きは、意識と物質、内と外、主観と客観を超えて真無限の中で吟誦のように響いている。この響きに感応するとき、私たちは空間の真の姿、すなわち、永遠の生命の場を直観するのである。
8月 15 2025
カタカムナ人に畏敬の念を込めて
古代の叡智に触れると、ただただ深く頭を垂れざるを得ない瞬間が多々あるのだが、カタカムナ人たちの世界観もまたその一つと言っていい。
「アメ」に漂う無限の場から、球の霊「マリ」が生まれ、 それが「イマタチ」として瞬間の中に立ち上がる——
この言葉だけで、ヌーソロジーが長い時間をを経てようやく辿り着いた、持続と瞬間の二重構造や、自己と他者の反転などが、超古代の心の中にも透徹していたのだなと思わせる。
「ヒトツカタ」は、まるでヘキサチューブルのように世界を重ねていて、「タバネタチ」「マトマリタチ」は、観察子群の生成秩序とピタリと重なり合い、内的宇宙の多重な襞化の運動を前景化する。
まさにカタカムナは、現代物理学がスピン群やSU(2)で記述している内部対称性を、超古代の言葉として、そのまま謳い上げているかのようだ。
ヌーソロジーが解き明かそうとする宇宙像は、実のところ、カタカムナのウタヒの中で、すでに生き生きと歌われている。
ヒフミヨイムナヤコト、アウノスヘ、マワリテメクル── これは単なる50音の羅列ではなく、量子状態が時間と空間として立ち上がっていく瞬間の呼吸音であり、宇宙が自己自身を想起していく鼓動音でもあるのだ。
私たちの歴史は、現象世界の旅路を経て、ようやく超古代が見ていた別の歴史の入口に立ち始めたのだろう。
カタカムナ人たちの視線は、決して過去に置かれたものではなく、未来のわれわれに向けられた、時を超えたところからの呼びかけなのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), カタカムナ, ヘキサチューブル