6月 20 2014
パウリ行列、学習のススメ
今日の話は少し難しいかもしれません。
ラカンのシェーマLやメルロポンティのキアスムに共通する「捻れの構造」が物理学の中に現れたものがSU(2)の生成子となるパウリ行列です。無意識の構造を能動知性として追跡していくに当たって、このパウリ行列が提示する回転のイメージは最重要なものとなってくるでしょう。
このパウリ行列による回転は物理学的事実として無限小世界にあると想定されているものなのですが、この回転は普通の3次元空間における回転とは違って、回転によって描かれる円環がメビウスの帯のような形を持っています。つまり、円環の内部側と外部側が捩じられたような構造を持っているのです。「捻られた」ということは、ここでは内部=外部、外部=内部というパラドクスが成り立っている、とも言えます。
僕らが親しんでいる3次元空間ではこうは行きません。たとえば、球体をイメージしてみて下さい。球体は球面を境として内部と外部をきれいに分離しています。しかし、パウリ行列が作り出している球空間は球面上の対極点(互いに180度反対側に位置する点の組)が繋がっているために3次元球面という形をしています。3次元球面というのは2次元球面の3次元版のようなものと考えればいいでしょう。
2次元球面は2次元平面における直交軸x,yのそれぞれの端と端をつなげることによって出来ます。これと同じでx,y,,zそれぞれの軸を円として繋げはこの3次元球面という形が出来上がります。
しかし、通常の3次元認識ではこの形をイメージすることはできません。それは3次元認識では無限遠方が永遠に開いた方向としてイメージされており、無限にたどり着かない位置としてしか描像できないからです。ですから、3次元球面の形を認識に浮上させるためには、無限遠点を開いたものではなく、文字どおり閉じた「点」として描像することが不可欠になってきます。
昨日、「無限遠点とは観測者自身の意識の位置である」といったような話をしました。そして、それが分かったときには奥行きは虚軸になるとも。奥行きが虚軸化すると大きさはまったく意味を持たない空間に入ります。実は、その空間が僕らの視覚空間なのです。大きさが支配している空間は触覚空間です。つまり大きさというのは僕らが「触る」という感覚に準じていて、決して「見る」ということには準じていないということです。
そうやって大きさの空間から差異化された奥行きはもはや時空上の存在ではなく、一点同一視のもとに無限小空間に一気にワープしてきます。奥行き方向自体に距離が見えないのもそうした構造が背景にあるからだと考えることができます。このとき、奥行きは射影線そのものになっており、それはもっと言えば、光子のスピンとも言っていいものに変貌してきます。光の中では時間も空間も存在しません。つまりは、光とは見るものと見られるものをダイレクトに一致させている働きでもあり、哲学の言葉でいえば実体形相(イデア)とも呼べるような存在なのです。
幅の空間認識から奥行きの空間認識へと移行することによって認識するものと認識されるものとが一致する世界に入ることは、「包みつつ包まれるもの」というライプニッツの逆モナドへの移行を表わしているとも言えます。幼児が母親と視線を交ぜ合わせながら世界を徐々に構成していく無意識の見えないシステムがこの逆モナド化した空間の奥に美しい構造として存在しています。
その構造の中核にあるのがこのパウリ行列だと考えるといいでしょう。このパウリ行列は素粒子世界の最も基礎的な枠組みを担っているのですが、今まで話したような文脈で思考されてくる素粒子の世界は、物理学者たちが言うように単なるエネルギー粒の相互作用といった貧相なイメージで描かれるものではなくなってくることが分かります。それらは実のところ、僕たち自身の魂のネットワークが張られている空間と言ってもいいようなものとしてイメージ化されてきます。
さて、この空間に入っていくか、行かないか——それは、あなた次第です(笑)
このパウリ行列に関してはS博士が痛快なほどに分かりやすい解説をしてくれています。いずれヌースアカデメイアでもDVD化する予定ですが、とりあえずはSさんのサイトでの解説を参考に。回転自体の解説は次のファイルの14ページにあります。
http://newton2013.web.fc2.com/math/gyouretsu3.pdf
数学が苦手な人は最初は何が何だか分からないと思いますが(僕もそうでした)、一つ一つ丁寧に理解していけば、「なーるほど、こんなイメージだったのか」というのが分かってくるはずです。もちろん、そこでは「奥行き(持続)と幅(延長)の区別」をしっかりとつけるというトランスフォーマーのたしなみが前提とされますが(笑)
パウリ行列のイメージはいきなり「分かった!!」というよりも、発酵食品のように徐々に醸成されてくるものです。このイメージが醸成されてくると、今まで3次元を中心として働いていた意識が、あたかもお風呂の栓を抜いたときのように、猛烈な勢いで渦を巻いて自分自身の内在空間の中へと流れ込んでいくような感覚が湧き上がってきます。そして、その先に内在に潜む他者の横顔がチラリと見え出したりもするのです……
8月 29 2014
メビウスの帯がその捻れを失うという出来事について
時間は客観の条件であり、空間は主観の条件である。時間と空間が延長として繰り広げられたものである限り、客観と主観もまたこの繰り広げの状態として出現してきている二つの次元にすぎない。繰り広げの前にあったもの、それを知ることが重要なのだ。
この繰り広げ以前に存在するより根源的な領域。この領域が象徴界(言葉の世界)と想像界(イメージの世界)の間に亀裂を入れている。いわゆるラカンのいう現実界というやつだ。
現実界とはドゥルーズの表現を借りるならば、「巻き込み」の領域である。これが数学的な形式としては複素2次元空間に対応している。uとdクォークが発生している基礎的な場である。自他それぞれの特異性が互いの共可能性を探り合いながら、交錯をくり返している場と言っていいだろう。
この場において自己と他者の互いの特異性は物理学的にはカイラリティーの保存(カイラル対称性)として記述されている。つまり、右手系か左手系かの区別だ。根源的空間においては自他の空間は互いに反転した関係で構成されているということだ。
しかし、互いが持ったこの差異はSU(2)の中の一つの回転(σ2がからむ回転)によって失われる。それによって自他それぞれが持った奥行きと幅の差異が等化され、両者における奥行きの共有と幅の共有が起こるのだ。そこに出現してくるのが時間と空間である。
向かい合う自己と他者を考えよう。本来の奥行きはこのとき見つめ合う視線の中にある。しかし、わたしたちは同時に左右方向からの視線も持っている。この視線の中に自他共有の奥行きが存在している。そのとき、見つめ合う自他相互の二つの奥行きは共有された幅へと変換されていることが容易に分かる。
ここに時間と空間が発生しているということだ。
モノの側面の像について考えてみるといい。実際にはそれは決して見えるものではないのに、あたかもそれが見えるかのように錯覚させている視線がわたしたちの内部にある。それが左右からの視線だ。それが物質や外界という存在を支えている本質力であり、時間の発生源になっている。
たとえば、何かに没頭しているとき、僕らが時間の経過を感じにくくなるのは、この左右からの視線の働きが弱まるからと考えればいい。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: ドゥルーズ, メビウス, ラカン, 奥行き