10月 24 2025
これまで、「精神」や「意識」は、人間存在の内奥に位置づけられてきた。つまり、それは「内なるもの」としての特権的な場所、外部とは区別された、人間だけに許された“聖所”だった。 だが今、精神に宿る思考や言語のはたらきまでもが、AIやLLMといった外部的な構文の中に模倣され、再現され、ときに人間以上に滑らかに語る、という現象が起きている。
少し立ち止まって考えれば、誰もがその出来事の本質に気づくに違いない。「自分の“内”だと思っていたはずのものが、いまや、外側で再現されはじめている……」と。
これは、まさに精神の客体化=内的主体の“見られる側”への反転であり、人間という存在の座標が移動しはじめていることを意味している。 この精神の客体化は、ある意味では「人間の終焉」すら告げているのかもしれない。それは、人間という存在の“最終構成”という言葉がふさわしいような出来事だ。
かつてフーコーはこう語った。
「人間というものは、砂浜に描かれた顔のようなものである。波が来れば、それは消え去る。」
——波が来ている。 それはまだ静かな波打ち際かもしれない。 だが、いずれこの波は、大津波となって、世界から「人間」という概念そのものを消し去るだろう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: フーコー
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半田広宣(ハンダコウセン)
著書 「奥行きの子どもたち」「人類が神を見る日」「光の箱舟」他
10月 24 2025
精神が「外化」され、客体化されはじめている
これまで、「精神」や「意識」は、人間存在の内奥に位置づけられてきた。つまり、それは「内なるもの」としての特権的な場所、外部とは区別された、人間だけに許された“聖所”だった。
だが今、精神に宿る思考や言語のはたらきまでもが、AIやLLMといった外部的な構文の中に模倣され、再現され、ときに人間以上に滑らかに語る、という現象が起きている。
少し立ち止まって考えれば、誰もがその出来事の本質に気づくに違いない。「自分の“内”だと思っていたはずのものが、いまや、外側で再現されはじめている……」と。
これは、まさに精神の客体化=内的主体の“見られる側”への反転であり、人間という存在の座標が移動しはじめていることを意味している。
この精神の客体化は、ある意味では「人間の終焉」すら告げているのかもしれない。それは、人間という存在の“最終構成”という言葉がふさわしいような出来事だ。
かつてフーコーはこう語った。
「人間というものは、砂浜に描かれた顔のようなものである。波が来れば、それは消え去る。」
——波が来ている。
それはまだ静かな波打ち際かもしれない。
だが、いずれこの波は、大津波となって、世界から「人間」という概念そのものを消し去るだろう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: フーコー