5月 27 2016
シュタイナーのつぶやきに対するつぶやき返し
今でこそ、ヌーソロジーはドゥルーズ哲学と現代物理学の接合に焦点を当てているんだけど、OCOT情報を解読していくに当たっては、初期の頃は伝統的な霊知に関する本を漁ってたんだよね。いわゆるオカルティズムというやつなんだけど。
ヘルメス文書はもとより、カバラやスーフィズム、古代バビロニアの神秘学からミトラ神学にまで手を延ばしたこともあったんだ。そこから、今度は一転してブラヴァッキーを始めとする近代オカルティズムの世界を探索していったのだけど、正直、みんな詳細に欠けていた。そうした中、90年代になって、シュタイナーと出会う。最初に読んだのは『神秘学概論』ってやつ。シュタイナーの思想は、人間の霊性の復活に対して思考を重んじるという点で、OCOT情報とすごく重なるところがあった。それに描写が繊細で他のものとは完全に一線を画していた。そこで何冊か続けて読んでいったのだけど、描かれている世界があまりに壮大なこともあって取りつく島がなく、それで、しばらくほったらかしにしてた。
でも、2010年代になって、お世話になっている大学の方で研究会をやり始めて、そこにシュタイナー研究に長年勤しんでいるFさんとOさんも参加してくれ、ドゥルーズ哲学を切り口にしてヌーソロジーとシュタイナーの比較作業みたいなことが始まったんだよね。それでこの三者には多くの共通点があることが分かりだした。今、出版準備をしているシュタイナー思想とのコラボ本もそういう流れで生まれてきたものなの。ただ、三人の共著ということで、分量があまりに多くなってしまい、どういうスタイルで出版するか、今、出版社の方で検討中で、そのため発刊が大幅に遅れているんだけど、必ず出るので楽しみにしていてね。濃いよ(笑)。
で、発刊に向けてのデモンストレーションというわけでもないのだけど、ツイッターの方で、シュタイナーのつぶやきに対するつぶやき返しをツイートし始めた。今日はその内容をちょっとだけ紹介。。
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ルドルフ・シュタイナー @R_Steiner_jp
ゲーテは全自然の中に精神が浸透していると考えていた。その形式が様々であるのは、精神がそれらの中に多かれ少なかれ外的にもまた見られることによる。死せる、精神を欠いた物質なるものをゲーテは知らない。-ゲーテの自然観-
半田広宣 @kohsen
一体どのようにして自然の中に精神を浸透させていくのか、相互了解可能なその方法論が今までは見つからなかったわけです。ヌーソロジーの特徴は奥行きを持続の位置とし、それを虚軸に見立てダイレクトに自然の根底へと潜り込むところにあります。
ルドルフ・シュタイナー @R_Steiner_jp
人間は思考によって自然についてのイメージを外にあるもののように形成するのではなく、認識とは体験であることを示したかった。つまり、人間は認識によって事物の本質のなかに立つのである。-自伝-
半田広宣 @kohsen
事物の本質のなかに立つーーこれが本来の理解=under-standの意味するところですね。事物は対象として理解されるのではなく、自己自身として理解されなくてはいけません。グノーシス=Gnosisの意味もこうした知識を意味しています。
ルドルフ・シュタイナー @R_Steiner_jp
人間の意識は思考する意識である故に、必然的に自己意識でもなければならない。なぜなら思考の眼を自分自身の活動に向ける時、思考は自分の最も固有の本性である主観を客観対象として持つのだから。-自由の哲学-
半田広宣 @kohsen
主観を客観対象として持ったとき初めて思考するものと思考されるものが一致をみます。そこに出現してくるのが母なる物質=大文字のMATERIALです。主客の一致がここに現れてくるわけですが、これは判明な思考の運動として立ち上がってきます。
ルドルフ・シュタイナー @R_Steiner_jp
大切なのは、人間の内面の悪の中に身を置くことです。破壊のかまどの中で物質が破壊され、物質がカオスに帰せられるとき、そしてこの内面の破壊衝動に道徳衝動が注ぎ込まれるとき、私たち自身の中で、霊的な存在が芽を出し、育ち始めるのです。-内面の旅-
半田広宣 @kohsen
転倒が悪なのではありません。転倒の転倒が悪です。転倒の転倒へと力が傾斜していくことよって、同時にそこには転倒以前の状態へと帰還しようとする力が生まれてきます。自身の中の悪を凝視すること。悪を見つめられない人は本当の善に気づきません。
ルドルフ・シュタイナー @R_Steiner_jp
客観的なイデア世界が主観の中で蘇生し、自然の中で活動しているものが同時に人間の精神の中で生きて働く時に、主観と客観は出会う。こういう場合にのみ主観と客観のあらゆる対立が止揚される。-ゲーテの自然観-
半田広宣 @kohsen
主観と客観の出会いとは原初の反復のようなものです。この出会いの事件が現在、物理学で起こっている量子論という出来事なのです。主観と客観を表象で一致させてはいけません。そうした誘惑は意識を主観の中に閉じ込めてしまいます。
9月 26 2016
物理学の話は人気がないので、もう一度!!
(何事においてもそうだけど、一番大事なことは常に隠蔽され、人々をそこから遠ざけるように人間の体制というものは仕組まれているということ)
持続意識が持った時間的自由度というものにまずは注意を向けてみよう。意識は持続意識の中で過去を想起することもできれば未来も予期(予知ではないよ)することができる。だけど、持続意識だけだったら「いま・ここ」という現在が極めてあやふやなものになってしまう。
そこで意識は「いま・ここ」を固定するために、持続意識の働きを打ち消して潜在化させる仕組みをその内部にセットしている。持続意識は無意識化するということだね。これがヌーソロジーでいう等化と中和の関係のようなものだと思うといい。等化が無意識(持続=非局所)、中和が意識(継起=局所)。
物理学がゲージ理論の中で対称性と呼んでいるものは、この局所性を保証するためのシステムだと考えるといい。局所的U(1)変換対称性であれば、持続意識が時間的に自由に動き回るとき、その動きの中で現在を見失わないように、絶えず意識の位置を現在に戻そうとする働き。そういうものだ。
局所的SU(2)変換になると、その意味で今度は時間領域が二つ出てきて、さらにそれを統一しようとする領域も出てくる。U(1)に対して時間領域の自由度がまぁ3倍になると思えばいい。この三つの自由度が、自己、他者それぞれの主観的時間性、さらには客観的時間性という位相に当たると考えるといい。
この変換が局所的対称性を持つというのは、持続意識がその領域を自由に移動できるのだが、それだけだと統合失調症的状況に陥ってしまうので、それをまた、「いま・ここ」へと戻し、等化を中和に持って行くというイメージだ。
そういえば、NOMI体験のとき、NOMIはこう言ってきた。「今からあなたを霊的世界へと案内しますが、それによってあなたは気が狂ってしまうかもしれません。その危険性を避けるための合言葉を教えておきます。」その合言葉は次のようなものだった(笑)
―いつもいつもとは、いつのことですか―
―はい、それは今のことです―
結局、僕は案内の途中でたびたび繰り返されるこの合言葉に答えられなくなり発狂してしまった(笑)。「現在」とは言ってみれば、人間の意識のアンカーのようなものなのだ。
このアンカーの役割を果たしているのが物理学者たちが言っている局所的ゲージ対称性の本質的意味だと思うといい。標準理論に倣うなら、僕らの持続意識の領域は大別すると、U(1)領域に始まってSU(5)領域まで五つある。その広大な領域を無意識は巡る一方、「いま・ここ」に錨を下ろしてもいるのだ。
これらの対称性を持って力を媒介するとされるボゾンとは、その意味でいうなら、中和側が先行した、僕ら人間の意識を司っている構造そのものの物理学的表現と言えるだろう。
局所的意識が表面に出て、非局所側が潜在的なものとして沈み込む―これが人間の意識の在り方だとすれば、人間の意識の反転というその語義は、非局所的意識が表に出て、今度は逆に局所側が潜在的なものとして沈み込むスタイルを取る。これがOCOT情報のいう「人間の意識の覚醒」というものだ。
物理学的にいうと、これは超対称性変換というものに当たると思われる。ボゾンとフェルミオンの変換対称性である。
ヌーソロジーでいう人間の定質(等化の総体)と性質(中和の総体)の交替化がこれに当たると思うといい。
この作業は、シュタイナー的にいうなら、アストラル体の霊我への変換と言えるだろう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ゲージ理論, シュタイナー