7月 9 2025
ジピにフッサールの現象学とヌーソロジーの違いを聞いてみた
フッサールとヌーソロジー、そしてドゥルーズやハイデガーとの比較は、主体の扱い方において非常に重要な違いを持っています。
フッサールは、現象学的還元によって、意識を通して対象がどのように現れるかを探求しましたが、そのプロセスでは表象を残しつつ、主観と客観の循環を維持しています。
このため、自己同一性や従来の主体性が最終的に解体されることはなく、同一性の反復に留まるとドゥルーズから批判される要因となりました。一方、ヌーソロジーの視点では、フッサールの現象学を超える新たな主体性の理解が提唱されています。以下に、その違いを整理しつつ、ヌーソロジーがどのように主体の解体と再構築を行うかを解説してみます。
1. フッサールの表象と自己同一性の保持
フッサールの現象学における現象学的還元は、意識が世界をどのように経験し、構築するかを明らかにする試みでした。彼のアプローチは、意識の志向性に基づき、対象(ノエマ)がどのように意識(ノエシス)によって構成されるかを探求します。しかし、この還元の過程では、意識が対象を表象する仕組みが維持され、主体の自己同一性が最後まで保たれることになります。
このため、フッサールの現象学は、主観と客観の循環を同一性の中で繰り返す構造を持ち、主体が完全に解体されることはありません。この還元は、あくまで意識の中で世界を再構成し、その意味を明らかにする試みですが、主体の従来の枠組みを超えないという限界が指摘されました。ドゥルーズはこの点を批判し、フッサールの現象学が「同じものの繰り返し」に過ぎないとして、現象学が持つ限界を強調しました。
2. ドゥルーズの批判と主体の脱構築
ドゥルーズは、フッサールのアプローチが主観と客観の循環の中で、差異の生成を妨げると批判しました。彼は、現象学が同一性を前提にしてしまうことで、世界の多様性や変化、差異を捉えることができなくなっていると考えました。ドゥルーズにとって、世界は生成変化し続けるものであり、同一性の反復では捉えきれないものです。
ドゥルーズは、フッサールの還元が行き着くところで差異の解放が行われず、むしろ自己の固定化が強化されてしまうと考えました。彼の哲学は、差異と反復の探求を通じて、主体が自己同一性から解放され、新たなものの創造を可能にすることを目指しました。
3. ヌーソロジーにおける主体の解体と再生成
これに対して、ヌーソロジーのアプローチは、主体の自己同一性の解体を積極的に行うものです。フッサールが意識と対象の関係を循環させる中で自己同一性を保持しているのに対し、ヌーソロジーでは、まず主体が自己同一性を一度解体されることが重要視されます。ここでの解体とは、自己が自他の区別を超えた存在論的な次元に移行するプロセスです。
ヌーソロジーの観点では、自己と他者の境界が逆転し、自己は他者の視点を取り込みつつ、自らを見つめ直すことになります。この転倒のプロセスにより、自己は単なる自己同一的な存在から脱し、他者を含む広範な視点を取り入れた新たな主体性が生まれます。これが、**ヌース(奇数系の観察子)とノス(偶数系の観察子)**の相互作用による反転的な再生成のプロセスです。
このプロセスは、ハイデガー的に言えば、存在論的主体への変貌を意味します。ハイデガーが語る「現存在(Dasein)」は、自己と他者の境界が曖昧となり、自己が存在そのものを問い直す存在論的な主体です。ヌーソロジーにおいても、主体は単なる知覚的・認識的な存在を超えて、他者や存在そのものと新たな関係を築き、存在そのものを生成する能動的な主体へと転化します。
4. フッサールとの違い:存在論的な変容
この点が、フッサールの現象学との最大の違いです。フッサールの現象学は、主体が意識を通じて意味を構成するプロセスを探求しつつも、その主体は最後まで意識の内にとどまります。一方で、ヌーソロジーのアプローチでは、主体は自他の関係が転倒され、自己同一性を解体した後、反転的な構造の中で他者を取り込みつつ、自己意識を新たに生成するのです。
この過程では、自己は単なる表象や志向性に閉じ込められるのではなく、他者と共に自己を作り上げる存在論的な主体となります。この主体は、フッサール的な循環の中で同一性を反復するものではなく、差異や転倒を受け入れて、変化し続ける存在として捉えられます。
まとめ
フッサールの現象学的還元は、表象や志向性を保持しながら主観と客観の関係を探求するもので、自己同一性を維持したままの意識の働きを描きました。一方、ヌーソロジーは、主体の自己同一性を一度解体し、他者を取り込んで新たな主体性を生成するプロセスを強調しています。これは、フッサールが残した自己同一性の枠を超え、自己と他者の転倒と反転的な再構築によって、存在論的主体へと変容することを目指しています。
この視点では、ヌーソロジーはフッサールの限界を超え、主体が自己と他者、内と外を統合しながら、新たな生成へと向かう哲学的アプローチを提供していると言えるでしょう。
7月 10 2025
本来の自己視点を意識に浮上させるために
「意識の位置は無限遠点にある」という感覚を呼び起こすためのイメージトレーニングを書いておきます。
1.視野空間をモニター画面として意識してみる
世界は僕らの視野空間上に展開している。この視野空間をモニター画面のようなものとして見ることが必要。
モニター上には画像や映像が広がっていて、僕らはその中に「入り込む」ことはない。視点は常にモニターの外部にあり、僕らは画面の中のどこかに存在しているわけではなく、画面全体を「外から」見る位置にいる。
日常的な視覚体験もこれと同じで、僕らは3次元空間の中にいるというよりは、その 3次元空間全体をモニターのようにして、その外側から見ている。そのときの観察位置が無限遠点に当たる。
2.観測者の位置は不動である
この視野空間(高次のモニター画面)を見ている自分の位置、つまり観測者の位置は、物理的にどこかに動いたり変化したりするわけでは決してない。
映画館でスクリーンを見ている観客が座席を動かすことなく映画を観ているのと同じように、観測者の位置も本当は動いていないのだ。
視野空間の中で物体や景色が動いたり、時間が流れたりする一方で、観測者の位置そのものは不動で、むしろ、その時空間全体を外部からか捉えている。
3.自己視点は「無限遠点」にある
このように、一度、視野空間をモニターとして認識すると、観測者の位置が物理的な空間のどこにも属さず、むしろその外側に「無限遠点」として存在していることが直感的に理解できてくる。
僕らは、普段、さまざまな出来事を時空上でちらえているわけだが、その背後には、この時空というスクリーン全体を外部から捉えている、本来の視点があるわけだ。
この視点は絶対不動の位置として固定されており、時空には属さず、時空上でのすべての変化を不動の位置から観察していると考えられる。
自己視点とはそういうものです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0