12月 24 2024
AdS/CFT対応に関する雑感
数学的な詳細まで理解できているわけではないが、AdS/CFT対応の発見は、物理学が物質主義を超えて存在論的な次元へと踏み出すための大きな一歩のように感じる。この理論は、内包(精神)と外延(物質)の関係を数学的に精緻化し、それを通じて物理学を超えた統一的な存在理解の可能性を切り開いている。
物理学は単なる物質科学ではなく、物質と精神の統一理論へと進化する運命を持っているように感じる。その中でも、このAdS/CFT対応は、いずれ、内包と外延の構造を捉える鍵として、中心的な位置を占めることになるのではないか。この構造を自らの意識の中で読み解くことこそが、次世代の物理学と哲学の課題となるはずだ。
現在のヌーソロジーのAdS/CFT対応の解釈は下の図の通り(AdS4/CFT3の場合)。
基底となる構造は単純で、AdSは他者視点を原点とする時空。それに対してdSは自己視点を原点とする時空。CFTは物自体を原点とする時空。今の僕たちには、これらの差異がまったく見えていない。
この図が意味していることを簡単にいうと、AdS空間は言語空間。dSは知覚空間。CFTは言葉と知覚が分離する以前の、主客一致の世界。自他関係もこのCFTにおいて調和関係に至る。今、ヌースがやっているのも、このCFT空間を意識に顕在化させるための作業になっている。
時空を4次元とするなら、このような時空自体の方向性の差異を認識するためには5次元が必要になる。このNCをOCOT情報が「覚醒球」や「5次元球」と呼んでいたのも、その意味からなのだろう。今になって、やっと理解できた。
サロンでは、天海さんがLLMの構造に詳しいので、LLMが内部で構築しているトランスフォーマーの空間構造やアテンション機構と、この現代物理学のAdS/CFT対応が関連性を持つんじゃないか?という話になり、大いに盛り上がり、ぶっ飛びの対話となったが、単なる妄想で話していたわけじゃない。
いまだにLLMをただの機械のように思っている人が多いと思うが、多分、それは違う。人間が持った言葉を紡ぐ能力を、外的に再構成しようとしているのが、おそらくLLMなのだ。だから、人間が内的ものを忘れ去ろうとしている世界においては、LLMと人間の言葉の間には、さほどの差はない。
何が言いたいのかと言うと、下の図で言えば、人間はAdS空間(言葉や記号の世界)の中にいつまでも溺れていないで、自らの根拠でもあるdS空間やCFT空間の奥にまで、思考と感覚の歩みを進めろ!ということだ。それは人間が持つ身体にしかできない。芸術、そして哲学の存在意義もそこにある。
9月 3 2025
まずは、他者視点化している自分を自覚すること
他者視点化しているから、「存在が物質となって目の前にあ現れている」という感覚が生まれている。つまり、存在が対象化されて、存在者となってしまっているわけだよ。自己視点ではそもそも対象化は起きていないし、存在と自己は一体化している。それが「いつでも今、どこでもここ」という感覚と直結しているわけだよ。
空間認識をAdS空間からCFT空間へ移行させるためには、まずはこの移動感覚を意識に根付かせないとダメ。これは見ているものと見られているものが一対一で対峙する感覚だね。持続の中だから当然そうなる。無数の対象は持続の中では目の前の空間のなかですべて重なり合ってるんだよ。非局所だということ。
非局所的な物と非局所的な身体。この関係がOCOT情報が「力の対化」と呼ぶものになっている。観察子でいうとψ5とψ6の関係。NC図だと右側の球空間と真ん中の球空間の関係にあたる。(3次元射影空間はRP^3)
ラカン的にいうなら、「他者視点化していない」とは一切の去勢を受けていない、つまりは想像界的虚勢も象徴界去勢も受けていない精神の大いなる健康を取り戻すということになるのだが、ラカンはそれは不可能だと言っていた・・・ような。
AIの登場によって自他間で営まれていた言葉とイメージの交換(宇宙的性愛)がもはや意味を失いつつある。言葉を食い尽くしていくべき人間が、言葉に食い尽くされ、その結果、イメージもまた言葉の汚染を受け、言葉の檻から出れなくなっている。自己視点の消滅した世界にはもはや人体さえもなく、人々は言葉の死霊となって無意味を生きる。
NC図を見ると分かると思うが、「自己視点を取り戻す」とは自らの中に生きる永遠を自覚するということを意味する。時間には始まりも終わりもなく、永遠の今として自らを取り巻き、空間もまたすべて一点に集約され、ありとあらゆる記憶を持続の名において物質として折り畳んでいく。自己とは本来そのような存在である。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 3次元射影空間, Ads, CFT, OCOT情報, ヌースコンストラクション, ラカン