12月 8 2025
生死不二としての霊界——自己視点の回復
霊界とは、決して“死後”に訪れる別世界などではない。それはむしろ、“視点の反転”によって現前する自己世界そのもののことである。
私たちはふだん、「生きている世界」だけを現実と見なしている。しかしそれは、他者視点化された空間、つまり世界を“外から”見るという見方に根ざしている。この視点は、自分を他者化し、自分の周囲を“外的な存在”として並べる立てる視座である。
だが、本来の「私」はそのような他者的空間にはいない。本当の私は、“内側から”世界を持続的に経験している主体である。この主体の立場から世界を見ること——それが、ヌーソロジーが自己視点の回復と呼ぶものであり、それは確実に霊界の開示につながっている。
ここで重要なのは、ヌーソロジーの視点においては、死とは意識の停止などではなく、”自己視点の浮上”であるという理解だ。つまり「死」とは、時間の流れを停止させるのではなく、時間そのものが「不動の持続」として自覚される場所、すなわち、奥行きにおいて、“霊的正面”が露わになる場である。
仏教が説く「生死不二」は、この視点の分断を越える洞察に他ならない。生と死は、断絶した二つの状態ではなく、一つの空間構文における、表か裏かという視点の違いにすぎない。
他者視点化によって、私たちは“霊的正面”を忘れた。その正面のなかで生きているものたちの世界こそが、「生のただなかに重なっている“霊的構造”」にほかならない。私たちはずっと、“霊界”のただ中にいたのだ。ただ、その方向を“見る”ことをやめていたにすぎない。
霊界とは、死のなかにある生であり、生のなかにある死である。そこに至るとは、“自己視点”の復興によって、生死の境界を無効にし、その全体性を生きることに他ならない。
霊的正面を開こう。何度も言うが、それは不可能なことではない。




12月 15 2025
真理は厳然と存在する
他者視点化と自己視点の間において、世界そのものが物質と霊という関係で美しく反転している。それがヌーソロジーの論理的帰結ということになる。
つまり、私たちが「物質世界」と呼んでいるこの現実は、実は“他者視点化された霊”にすぎないということだ。
同様に、「霊」とは“自己視点化された物質”であり、物質と霊は本質的には同一のものの反転像なのだ。
この二重の視点構造によって、世界は一つの絶妙な対称性の中に置かれる。——表に見えている「もの」は、すべてが他者視点を通じて構成された霊の外皮であり、逆に、私たちが内的に経験する「自己」は、物質が自己視点の中で再統一された霊の組織体にほかならない。
ゆえに、霊と物質は本来、別の世界に属しているのではない。それは、同一の空間がどちらの視点から照らされているかの違いにすぎないのだ。
ヌーソロジーの視点からすれば、この反転構造が時空そのものの生成原理であり、意識と世界、主観と客観、死と生、そして霊と物質のすべてを架橋する唯一の論理として現れてくる。
この論理構造の中に、現代人が失った「霊性」の真の意味が宿っている。それは神秘的でも超自然的でもなく、むしろ空間そのものの幾何学的な反転として、冷徹な美しさをもって横たわっている。
私たちは、いまこの場所で、霊としての空間に住まい、物質としての空間を見ているのである。そしてその逆もまた、常に成り立つ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0