2月 1 2007
差異と反復………12
何がそんなに重大なのか——モノを中心にして「わたし」が回転したときに見えているモノの背景正面(天球面の内壁)が現存在としての人間(主体)の位置の萌芽であるといったことを思い出してほしい。それが今、モノの中心点と同一視されてしまっている。このことをどういう風に考えればいいのか。。すぐに実感するのは難しいかもしれないが、それは、主体(モノを見ている「ほんとうのわたし」)の本当の位置は、実はモノの中にあるということを意味している、ということだ。人間の外面においては、モノの内部と外部という区別は全く意味を持っていない。それは、ψ3の位置としてのモノの背景面が、このようにモノの内部と外部を等化(同一視)しているからである。つまり、差異の場は、3次元認識的に言えば、微小領域に縮められて見えてしまっているということなのだ。
3次元空間上の無限小と無限大が180度捻られて、その結果、無限小=無限大、無限大=無限小という、今までの空間認識上あり得ないと思われていた奇跡的な連結が認識に浮上する。当然のことながら、この反転認識によって、今度は全宇宙が点状の小さいな球体の中に叩き込まれているという事態が起こる。この事態を目撃したとき、君は生きながらにして死ぬ者となっていると言っていいのかもしれない。もっと大げさに言えば、死してなおも生きることのできる「無礙」(むげ)なる空間へ出たのだとも言えるのかもしれない。空海がいうところの「一即多」「相移即入」なる重々帝網の世界(華厳的パールネットワーク)がそこに現れるというわけだ。部分が全体を映し出し、また、全体が部分の中に収まるあのライプニッツが語ったモナドのランドスケープが、理性の中に朧げながらも出現してくるわけである。
こうした認識は4次元認識の萌芽と言ってよいものだ。モノの中と外を自由に行き来できる4次元人間の話を君も聞いたことがあるだろう。君はこの時点ですでに4次元の扉を開いている。人間の内面認識では君はモノの外にいると感じているはずだが、人間の外面が顕在化を起こしてくると、君(主体)はモノの中にいるとも言えるようになるのだ。内面認識では宇宙は広大無辺なものに感じられているだろうが、外面認識では逆に宇宙空間はモノの内部に存在しているように見えてくる。当然のことながら、このような空間認識が生まれてくると、見るものと見られるものなどといった今まで僕らが持っていた頑な主客二元論的な区別は消失する。見るものとは見られるもののことであり(クリシュナムルティ)、僕らはモノの内部からモノの外部を見ている(ベルクソン)のである。
そして、このことの発見はいよいよ物質が思考を孕む、あの宇宙的妊娠の意味を持ってくることになる。つまり、思考(ロゴス/精子)が初めて物質表象の内部の空隙(コーラ/卵子)に接触してくるということだ。存在の円環におけるオメガとアルファの結節という言い回しで、僕がいつも話しているものとは、実はこの観察(主体)における無限大と無限小の連結のことなのである。
モノの背面にある奥行き方向が作る3次元の広がりと思っていたものが点的な球体に縮むということは数学的に言えば、(x, y, z)が(dx, dy, dz)に変換されるということでもある。これは微分の意味に他ならない。ここでドゥルーズの〈差異化=微分化〉という言葉が浮かんでくる人もいるかもしれない。ドゥルーズは内在面としての主体の場を強度の場(知覚が受ける強さの場の意味)と考え、そこが微分化された領域であると考えていた。その著「差異と反復」の理念の章の中でドゥルーズはさらりと言ってのける——微分dxとは理念(イデア)である——と。ドゥルーズの微分概念の借用はその手の専門家から厳しい批判を受けてはいるが、微分が内在面への接触であるというドゥルーズの主張にヌース理論は全面的に賛同したい。ちょっと偉そうだが、ただしそこには条件が欲しい。その条件とは今までの話の経緯からも分かるように、「- i」をくっつければ、という条件である。内在面が強度の場である限り、そこには実の3次元空間ではなく反転した空間としての虚空間、それもマイナスの虚空間が同席していなくてはならない。これを記号で表せば(-idx. -idy, -idz)ということになるだろう。この表記はそのままψ3の位置を抉り出すための数学的表現になっていることが分かるはずだ。ここにプランク定数を2πで割ったものh(-)を掛けて、微分記号を偏微分記号に変えてやれば鬼に金棒となる。というのも、これは量子力学においては運動量の量子化の手続きそのものを意味することになるからだ。つづく。
2月 12 2007
トツカノツルギ
さて、前回は、若干、オチャラケ気味で「上と下」の導入を書いたが、「上と下」について、ヌースの話をマジモードで始めるとちょっと大変になる。それは地球の自転や月の公転や、太陽やその他の諸惑星、さらには銀河、銀河団などについて、いろいろと話していく必要があるからだ。「回転とは等化」というヌースの鉄則がある。諸惑星たちは単にビックバンの残響力でいたずらに回っているわけではない。そこには「次元等化」という大事な働きが潜んでいるのである。ただ、それらについてはまだよくまとまっていないので、またのお楽しみとしておこう。とりあえず、ここでは地球表面が5次元球面であるということについて、少し補足して話を終わらせたいと思う。
2月8日の書き込みで僕は次のように書いた。
>ヌース理論が語る元素とは、物質の構造ではなく精神の構造である。ヌース理論の文脈では、元素は人間の外面の意識構造(潜在化した無意識構造)であった素粒子構造が、(描像可能な)対象として顕在化を起こした際のその認識の在り方そのものとして解釈される。
ここでいう精神の構造とはヌース理論が語るイデアのことである。イデアとはそれを思考することがそのまま物質の創造となるような観念のことだ。このイデアは、当然のことながら、ロゴス(通常の理性)では把握することはできない。ロゴスは被造物に関する知のみを対象とし、それは、いうなれば分断知である。ギリシア哲学の伝統においては、イデアを対象と見なす知性がヌース(nous)とされる。だから、「ヌース」理論は当然のことながら、科学的ロゴスが物質の中に見い出してきた種々の被造物の構造を、創造者が用いた創造的思考(nous)の形跡へと逆変換していくことになる。トランスフォーマー型ゲシュタルトがその眼差しのもとに顕在化させた5次元球面が地球表面のカタチに一致したとすれば、そこで思考された5次元球面はイデアの範疇であるがゆえに、そのまま地球表面を覆う何らかの物質として出現していなければならない。それは何か——。
もうお分かりだろう。それが大気圏である。その組成は科学的知見によればN2(窒素)とO2(酸素)とされている。つまり、端的に言えば、トランスフォーマーが次元観察子ψ7〜ψ8、ψ*7〜ψ8という次元観察子を潜在的なものの状態から顕在化させ、それが5次元球面のカタチであるということがはっきりと認識されたならば、彼らがその時点で所持している幾何学認識(カタチ)は、そのまま大気圏に変身しているということなのである。すなわち、大気圏とは5次元球面が見えている状態そのもののことを指すということだ。
要は、僕らは単に生理化学的な意味だけではなく、意識的にも大気圏とともに生きてい「た」わけである。その意味で身体を中心とする空間は地球精神が持った空間と言い換えることもできるだろう(ヌースでは「反核質」といいます)。だから、地球を起点とした宇宙空間について思考を巡らすときは、必ず身体とともにある思考を行なわなければ何の意味もない。身体抜きでは今の科学的宇宙論が展開しているような「地球は約46億年前にドロドロの溶岩の固まりから生まれました」的な全く奇妙な話にしかならないのだ。
さぁ、僕らは言うなれば地球にばらまかれた無数の十字架である。この十字架を旋回させてみよう。そうすると、そこには天とを結ぶ無数の光の線が生まれる。この一本一本の光線は僕らが「星の光」と呼んでいるものだ。はるか銀河と地球はこの光線によって螺旋状のへその緒のように結ばれている。十字の柄(つか)の先に延びた光の剣(つるぎ)。大地に深く突き刺されたこの聖剣(エクスカリバー)を抜き取るためには、僕らは太陽系が何かを知らなければならない。
銀盤に輝く月を眺めてみよう。何でそれは回っている?太陽の目映い輝きに見入ってみよう。やつは一体何をやってる?諸惑星たちが奏でる天球の音楽に耳を傾けてみよう。やつらはなぜ仲良く黄道面に並んでる?そこには、みんなそれなりの理由がある。20段存在するイデアの階段を昇ったとき、僕らはその理由の半分を知ることができるだろう。
ちょっとファンタジーSF的に進め過ぎか? まぁ、エンターテインメントなのだから、いいか。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 4 • Tags: トランスフォーマー型ゲシュタルト, ロゴス, 内面と外面, 地球の自転, 素粒子