6月 1 2006
ダ・ヴィンチ・コード
——ネタバレあります。映画を楽しみにしている人は読まないこと。
とりあえず、どんなものか観に行ってきた。いやぁ、驚いた。ウィークデーにもかかわらず、行列ができるほどの大賑わい。僕が行ったのは博多の中州にあるユナイテッド・シネマのシネコン。ここでは3館で封切られているのだが、どこも満員御礼。最近に類を見ない盛況ぶりだ。それに観客のほとんどが10代〜20代の若者たちで占められている。「マトリックス」のような作品なら理解できるが、「ダ・ヴィンチ・コード」にこんなに若い連中が集まっちゃっていいのでしょうか。メディアのバカ騒ぎのせいだな。
原作を読んでいないので何とも言えないのだけど、映画としてはこれは明らかに失敗作デス。謎解き映画であることを考慮したとしても、台詞があまりに解説口調すぎ。おかげで映像よりも字幕を追っかける方で大忙し。僕なんかはまがいなりにもオカルティックな知識が多少あるからいいものの、その方面の知識がない人にはチト難しいのでは?と、ちょっと心配になりながら観た。そしたら、案の定、勇んで映画館に足を運んできたと思われる若者たちの何割かは、上映開始後20分に爆睡。う〜ん、なんか、ヌースレクチャーの初日みたいだな(笑)。
要は、この作品、大枚のお金を叩いて映像化した意味があまり感じられないのだ。ベストセラーに乗っかった便乗商法の典型デス。マグダラのマリアがイエスの妻であったという話は「キリスト・最後の誘惑(M・スコッセシ監督)」などでもテーマになったことがあるので、今更驚くことでもないが、この作品(原作)はそうしたスキャンダルをより俗っぽく描いたので当たったんだろう。いわゆる王家の血脈とかいうやつ——イエス・キリストの血筋がメロヴィング朝の末裔に引き継がれており、その御方は今でも生きている——。日本にもあるよね。こういう類いのそそる話。南朝系の天皇の血を引くフニャララ天皇というのがいて、それをずっと守っている家系も存在する——。まあ、それが本当の話だとしても、僕のようなタイプは、そういうのはカンベンしてと言いたくなってしまうんだな。
イエス・キリストは「家族を憎めない人間は、わたしの弟子にはなるな」とまで言った人。グノーシス主義の過激派だ。直系だの純血など、そんなコテコテのユダヤ的な情念に対しては徹底して反抗したはず。それが何で今さら血脈なんだ?それじゃあ、選挙で教皇を選ぶローマ・カトリックの方がまだましじゃないか。
キリスト教は一つの巨大な虚構装置だ。西洋中心の歴史概念はすべてこのキリスト教という最大のペテンの上に築かれてきている。青年イエス・キリストはグノーシス主義者だったと思われるが、キリスト教自体は違う。彼らはイエスの権威を纏った権力集団である。連中がやってきたことを事細かに見てみるといい。布教・聖戦という大義名分のもとに世界の隅々までに軍隊を派遣し、力で民衆を支配する。十字軍、イエズス会、コルテス、ピサロ・・・そして、重要なことは、現代も本質のところではそれは何も変わっていない、ということだ。やり方こそスマートになってはいるものの、「無限の正義」をひけらかすかの帝国の精神構造は昔のローマ・カトリックそのものではないか。世界は未だにユダヤ・キリスト教の中に潜む男のロゴスによって支配されているのだ。
この作品で一カ所だけ光ったところがあった。ラストシーンだ。ルーブル美術館の前のピラミッドの地下深く、無数の芸術作品に囲まれて眠るマグダラのマリア像。それが最後に大写しにされる。これは象徴表現としてはかなりグーだ。ヌースをしこしこやっているわたしとしては少しジーンとした。聖母マリアではなく、マグダラのマリア。これが肝心な点なのだ。今まで、キリスト教をモチーフとした映画では、十字架の上に磔にされたイエス像か、幼きイエスを優しく抱く聖母マリア像しか登場しなかった。しかし、ここにきてついにマグダラのあの女がスポットライトを浴び出したわけだ。これは、本当に画期的。ピラミッドの下に眠る乙女イシス。月の知識の象徴。芸術の原動力。まさに眠れるグノーシスである。
イエスの復活はマグダラにかかっている。マグダラこそが復活するイエスの母なのだ。こうした映画が世界中で大ヒットするということは、ひょっとすると多くの人の無意識はすでにマグダラの目覚めを直感しているのかもしれない。彼女はたぶん絶世の美女だぞ。誰が彼女のハートを射止めるか。頑張ろ!!
7月 3 2006
アクアフラット、再び
実時間は沈んだ認識の産物である。水の中に魂が沈められているわけだ。ヨルダン川での洗礼である。洗礼は受難でもある。このとき、魂を沈めるための錘の役割を果たすのが君の頭部である。その意味で、君の頭部のことをアンカーヘッドと呼ぶことにしよう。僕らが時空と呼んでいるものは、このアンカーヘッド側に想定されている空間の深さのことである。端的に言うと、世界の後ろへの広がりとして想像されているものが時空なのだ。この深さは自我とともに存在し、自我はこの仄暗い水の中で固い鱗をつけ、魚のようにかろうじてエラ呼吸をしながら泳ぎ回っている。思う存分、呼吸ができない息苦しさを君は感じているはずだ。
他者の眼差しによって想像的なものとして作り出されているこのアンカーヘッドを切り落とし、水上の音楽が聞こえる位置にまで浮上すること——自分の主体としての位置をモノの手前側から、モノの背後に見えている空間側へと変え、鏡像から他者にとっての鏡そのものへと変身すること。ヌースではこうした主体位置の方向転換を「位置の交換」と呼ぶ。いつも言ってるように、視野空間そのものに自分の位置を見い出すことができれば、この交換作業は完遂されたことになる。
この感覚が今ひとつ分からなければ、例によって、グルリと自分自身で自転してみるといい。そこで意識されている前と後ろ。前は常に光に満たされているが、後ろは常に闇に閉ざされている。自我とは、他者から見られている主体像という意味において、つねに、この闇の中の住人なのである。実は、すべての物質現象は、この闇の空間の中で概念化され、記述されている。つまり、それはすべて見えない世界に関する記述なのだ。——このことは一体何を意味するのか?——つまり、客体=物質は、一般に考えられているような「見えるもの」ではない、ということである。それらは言語が作り出した幻像なのだ。言語によって不在があたかも在であるかのように偽装されている。その代償として真の在は隠蔽される。隠蔽された真の在とは、知覚像そのものとしての主体である。何と巧妙な罠だろうか。
具体例を出そう。たとえば、科学者たちは、アンドロメダ星雲までの距離は百万光年だという。そして、僕らが見ているその姿は百万年前の姿であると。実際に見えるアンドロメダ星雲は前の空間で見ているものだ。前では奥行きはすべて同一視されている。つまり、それとの距離はゼロである。距離がゼロであれば、時間も経過してはいない。となれば、アンドロメダからの光は百万年前のものなどではなく、「今」の光のはずである。それが百万年前という有りもしないものへと言い換えられる。もちろん、ここで「今」と言ったのは、物理学がいう点時刻0という意味ではない。「今」とは点時刻ゼロの中にある、実在が擁する永遠の広がりのことである。いつでも今、の「今」のことだ。
例えば、昔のことを思い出してみよう。昔のことを記憶として思い出しているのは「今」である。僕らは「今」以外の場所から過去を想起できない。未来に関しても事情は同じだ。将来に思いを馳せているのも「今」である。その意味で、過去、未来もやはり「現在」にある。こうした過去、未来を包含する「生ける現在」に主体としてのわたしが位置していることは明らかだ。そうした主体の位置をこの現象世界で空間的に指し示すことが、「位置の交換」に当たると考えてもらえばよい。それは、何度もいうように、視野空間の位置、つまり無限遠としかいいようのない場所なき場所である。
この新種の場所について、物理学的に納得されたい方は次のような思考実験を行い、その様子を数学的に表してみるといい。
まずはアンカーヘッドを取り去り、純粋に目の前の物体を見る。いや、「〜を見る」という表現にアンカーヘッドの影響を感じるなら、「〜として居る」という表現でもいい。とにかく、視野上に剥き出しのモノに自分を重ね合わせてみるのだ。そして、その中心点に原点Oを想像し、そこから前方に広がるx.y,zの三次元の広がりを等角写像として想像する(上図参照)。ここでは方向が反転しているという意味で、故意にx.y,zそれぞれの方向に「−」の符号をつけておくことにしよう(これは量子化のための伏線でもある)。このとき、奥行き方向にある距離空間(の2乗)は、距離をuとすると、
u^2=(-x)^2 + (-y)^2 + (-z)^2
として表される。結局のところ、マイナス符号は消えて、u^2=x^2+y^2+z^2となるが、ここではマイナスの消失をことさら問題としないことにしよう。
さて、視野空間上ではこのu^2は0点と同一視されている。u^2のこの点0との同一視をu^2からu^2の減算、つまり、u^2 − u^2と考えてみよう。すると、上の式は、
u^2 − u^2 = x^2 + y^2 + z^2 − u^2=0
となるのが分かる。何のことはない。これは、光を4次元のベクトルで表した式である。つまり、この式は、僕らの視野空間の在り方自体が「光」のベクトルである、ということを暗に表している式なのだ。そこでは、当然のことながら、奥行きが同一視されることによって、距離空間が相殺された形で光速度状態として現れる。つまり、「位置の交換」とは観測者を光に変身させることであり、観測者自らが光速度状態に入ることを意味するのである。僕らが光自身に変身したとすれば、もはや光は対象ではありえない。光が対象でなくなるということは、僕らは見えるもの(同一化)すべてから解放されるということである。ここに差異の思考空間が出現するのだ。
さて、この等角写像で表された3次元空間を存在の水平面(ヌースでは「アクアフラット」と言います)として見ると、光というのが物質と精神の境界面であることが分かってくる。精神を僕らの真の身体性とするならば、光とは精神の皮膚に相当するものなのだ。4次元時空の中にしか自分の居場所を発見できない僕らは、この皮膚を内側から突き破り、水中に夥しい出血を続けている。膨張する宇宙、エントロピー、一方向にしか進まない時間の矢、重力、そして、そこで衝突している二つの自我。それらはすべてこの出血に起源を持つ、女なるもの=精神が患った「人間」という名の病である。
この病には二つの代表的な症状が見られる。一つは精神を言語化することのできないロゴス、もう一つは、精神の言語化を拒否するパトスという症状である。分かりやすく科学と宗教と言ってもよい。そのどちらもが不妊の原因となるものだ。この病を癒すためには、まずは亡き父のファルスによって破られた女なるものの処女膜を再生することが必要なのだ。「位置の交換」とはそうした再生のための施術である。処女膜を再生し、物質をマリア・マテリアに変える必要がある。そうして、初めて、精神を言語化できる真のエロス=ロゴスを出現させることができる。そうしたロゴスのことを、改めて受肉するロゴス=イエス・キリストと呼ぼう。原始キリスト教が言い伝える、あの「ヴェサイカ・ピシス」の形をもう一度思い出すといい。そこには、含まれるものと含むものの一致、すなわち、0と∞の一致の形がある。それは、その呼び名通り、長い間、水中をさまよっていた「魚たちの浮き袋」となるものだ。
「位置の交換」………ψ3。幼きイエスの産声。君にはこの声が聞こえるか?
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ロゴス, 位置の交換, 無限遠