5月 12 2009
地球から広がる空間について——OCOTとの質疑応答
上画像はhttp://www.astroarts.co.jp/news/1998/01/980128near/index-j.htmlからの借用です。
●交信記録19950118
コ 地球の昼間の部分と夜の部分とは人間の内面と外面という対化と関係しているように思えるのですが、もし関係しているならばどのように関係しているのでしょうか。
オ はい、関係しています。それはチカラの関係です。外面が夜で内面が昼という言い方ができるでしょう。人間の意識においては外面はひとつの次元ではなく交差によって生み出された方向性の対化としての次元になります。表相はそれを生み出すための最初のひとつの反映と考えて下さい。しかし、人間の意識ではカタチが等化できないために一つの精神の力を持ち、それが付帯質の中でカタチとなったものが人間の内面なのです。人間の意識では一つの次元は内面と外面に別れ、そしてそれを等化するための次元を持つために夜と昼を付帯質の中に作ったのではないかと思われます。
コ 赤道とは垂質の総体の位置ですか?
オ はい。そのとおりです。カタチはすべて対化にあらわれています。
コ 地球の経線方向に作られる円(経度を決定している円)とは何ですか?
オ 力の反映。すべての方向性の調整作用。
コ 地球の緯度方向の円とは何ですか?
オ 垂質の等化の意味を持っています。
コ 地球と月の円心関係は人間の総体の内面と外面の位置の関係に当たるのでしょうか。
オ はい。そのとおりです。しかしカタチはまったく別のところにあります。
コ 地球に対する月の公転軌道の半径とは、地球から広がる空間を一本の線にまとめたもので、それを7次元の方向と考えていいですか?
オ 意味としては良いでしょう。しかしそれは交差を意味するものと考えた方が良いと思います。
コ もし、そうならば、月の公転とは7次元方向にある対化を等化している運動ですね。
オ はい、そのとおりです。
コ 月の公転周期が約28日だというのは、7次元の対化には28個の次元が存在するということですね。
オ 意味としてはそうなりますが、方向性は次元とは違うので注意して下さい。対化と次元とは少し意味が違うのです。ただし等化の意味ではそうです。
コ それら28個の次元が付帯質の内面における次元の方向性の数のことなのですね。
オ はい、そうです。付帯質の位置ではそうなってくるでしょう。
コ 地球から広がる空間の3次元性は実は6次元空間で、それは人間の身体空間と同じ意味を持っていませんか?
オ 意味としては同じだと思いますが、少しカタチが違います。反転したところで行われているものですね。
コ 4次元空間を人間の意識に顕在化させていくのが次元としての7次元空間の働きと考えてよいですか。
オ はい、そうです。交差を等化させていくということです。
コ 付帯質の内面方向は7次元の対化の等化と中和で閉じているのですか。
オ 意味としてはそうなります。
コ それは地球と月の間の空間とも言えますか。
オ はい、そうです。月の軌道とは力の柵のようなものです。
コ すべての素粒子と重力が生成しているのもその次元ですね。
オ はい、そのとおりです。
5月 27 2009
地球から広がる空間について、その4
●超越論的という言葉の意味について
前後がちょっと逆になりましたが、ここで前回少し触れたフッサールが提唱した「超越論的な意識の構成」という内容について少し捕捉の説明を加えておきます。ここではポイントだけを手短にまとめておきます。
フッサールが創始した現象学という哲学の分野はデカルトやカントの流れを組んだ思考の枠組を持っています。その考え方のキーワードとなるのが僕もよく使用する「超越論的」という言葉です。超越論的というと経験を超越した神のような立場から物事を考えることと受け取られがちですが、それは「超越的」の意であって決して「超越論的」の意ではないので注意が必要です。「超越論的」とは超越的とはむしろ正反対の意味で、経験以前の場所に立って意識が成り立つ条件を問い正していく思考的立場のことを言います。例えば、目の前に何らかのモノがあるとして、僕らはそれを自然にモノとして認識しています。「超越論的」とはこのようなモノの認識がいかにして意識に成り立っているのか、それを認識しようとする、まぁ簡単に言えばメタな認識の立場に立った思考的態度のことを言います。この認識は通常のモノの認識を超えてはいますが、と言って、神のような超越者を認識することではないのが分かります。
こうした超越論的な思考方法を取ると、モノがなぜモノとして認識されるのかに始まって、それを見ている主観としての「わたし」が「わたし」という主観として認識される条件、さらには客観世界が客観と認識される条件、挙げ句の果ては、その客観を取り入れて思考しているメタな主観としての「わたし」が成立する条件等、つねに超越論的に思考を連鎖させていく必要性に駆られていくことになります。こうした思考態度をその限界にまで徹底させたのがフッサールの現象学です。
ということで、フッサールが行った超越論的思考の足跡を簡単にまとめておきます。
フッサールは世界が客観性(自体性)をもった世界として僕らの認識の中に現出してくる条件を次のような三つの段階で考えました。
1、時間意識における超越
これによって意識は現在を超えることができ、現在を起点に過去や未来を相対化することができます。
2、空間意識における超越
これによって意識は空間的に隔たった様々な対象の見え姿の想像を可能とすることができます。
3、他者意識における超越
時間的超越も空間的超越もある意味では主観内部の意識形成にすぎず、この第三の超越によって意識は初めて主観を超越することが可能となり、他者との相互了解のもとに客観という合意形成に至ることができてきます。
そして、ここが重要なところなのですが、このような3段階の超越を経験しても尚、意識はつねに「わたし」の意識であり、そこでもなお一つの主観を保ち続けているのが分かります。このような超越論的統覚を果たした自我意識をフッサールは単なる心理学的な自我と区別して超越論的自我と呼びました。
参考までに、これらフッサールが辿った超越の内容をヌーソロジーが用いる次元観察子に対応させると次のようになります。
1、時間意識における超越………ψ3(時間意識を超越できる場所の条件を規定すること)
2、空間意識における超越………ψ5(主観における知覚的統覚が起きている場所を規定すること)
3、知覚的統覚の超越………ψ7(客体の位置が生まれる条件を規定すること)
4、他者意識における超越………ψ9(客観の位置が生まれる条件を規定すること)
5、超越論的自我の位置………ψ11(主観が客観を取り込める位置が生まれる条件を規定すること)
現象学の考え方ではこのような条件が揃って初めて、わたしたちの前に客観世界という場所が現れ、さらにはそうした客観を自らの中に統合した超越論的な統覚者である近代的人間としての「わたし」が意識として現象化してくることになります。つまり、ヌーソロジーは現象学が明らかにしようと試みた意識における客観的世界の成立の根拠を単に言語による哲学的観念の中に探るのではなく、それを高次元の幾何学的な空間構造に置き換えて表現、把握することを目的としているとも言えます。
では、なぜ、そのような幾何学的な置換を模索する必要性があるのか――ここがヌーソロジーが「ヌース(創造的知性)」を標榜する所以となるところでもあるのですが、それは、ヌーソロジーがその先験的(人間の経験以前にすでに存在していると考えられるもの)とも言える意識空間の構造をそのまま物質の起源と目される素粒子世界の構造の中に重ね合わせて見ることが可能ではないかと考えているからです。もし、それが是となれば、物質生成の始源を人間の無意識構造に想定し、物質空間と精神空間を一体として見なせるような創造空間の中に人間の理性が介入を果たしていくことになります。そこに到来してくる超理性と、その超理性が育む超感性——この両者を持った者たちがヌーソロジーが「トランスフォーマー」と呼ぶものたちのことなんですね。
——つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カント, フッサール, 素粒子