3月 18 2009
ヒトの精神構造としての太陽系(3)
さて、太陽系における内惑星系を個的意識発達の元型構造、外惑星系を類的意識発達のそれとして、そのおおまかなラインをヌーソロジーの観点から俯瞰しているわけだが、第9惑星の冥王星(現時点では準惑星)とその反映者として想定される第10惑星X(現時点では未発見)のペアが形作る次元の俯瞰には、心理学等で用いられている意識発達の概念を大幅に逸脱、超越する概念を取り込む必要性が出てくる。それがヌーソロジー特有の「交替化」という概念である。『人神』にも書いたと思うが、この交替化という概念の根底には「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」という古代中国の太極的思考のように、万物は陰陽の役割を常に交替させていくことによって絶えることのない前進を続けて行くという考え方が含意されている。ヌーソロジーが「人間の意識進化」と呼ぶものは、この交替化の概念によって必然的に仮定されてくるものであり、それはダーウィン的な無目的な進化概念ではなく、明確な目的を持った弁証法的運動として捉えることができる。占星学において冥王星が死と再生の象徴とされているのも、冥王星自体が人間の終焉と新たなる復活という責務を担っているからなのだろう。
交替化とはOCOT情報では「次元の交替化」もしくは「定質と性質の交替化」と呼ばれるもので、これは現在、僕らが自己と他者と呼んでいるそれぞれの意識場をそっくりそのまま入れ替える作業のことを意味している。つまり、ヌーソロジーが用いる次元観察子という概念で言えば、自己側の次元観察子ψと他者側の次元観察子ψ*との対称性を形作ることのできる精神の形成を意味するということだ。次元観察子はψ側とψ*側とでそれぞれ14個づつ存在させられており、ψ側とψ*側では奇数系(等化の流れ/青の矢印で示されている)と偶数系(中和の流れ/赤の矢印で示されている)の関係性が逆になって構成されている。ということは、必然的に、交替化の運動が開始されると偶数系だったところが奇数系*に変換され、奇数系だったところが偶数系*に変換されていくことになる。この変換の連鎖がいわゆるヌーソロジーが「顕在化」と呼んでいる作用である。
奇数系の観察子は観察子が形作る空間の差異のシステムに気づいており、その差異の認識を所持しているからこそ等化という統合の作業を可能にしていく。一方、偶数系の観察子においては空間の差異は相殺されて見えなくされており、平板化した時空という名のもとに一様、均質な空間認識として存在させられている。人間の意識に起こる顕在化とは、その意味で、空間に差異の系列を与えていく作業となる。
ここで今一度、Ω9の天王星とΩ10の海王星の働きをヌーソロジーがどのように意味付けしたかを再確認しておこう。天王星は人間の意識に偶数系の観察子を先手に取らせ、外在空間という一見、一様に見える空間の中に人間の意識を叩き込む機能を持っていた。一方の海王星はその空間に潜む差異の系列を人間の無意識にしっかりと保持させており、人間の意識に進化への方向を忘却させないように陰ながらの変換を行っている。今までこのブログで何度も語ってきたように、実質的にはこれらの空間構造の違いはいわゆる時空と物理学が内部空間の構造として解釈している素粒子構造として現象化している。つまり、海王星とは人間にとっての意識活動の場所性となるコーラを提供している本源力と考えられるわけだ。土星が時空(時間)の本質ならば、天王星は重力そのものの力として時空に突き刺されたファルスという言い方もできるだろう。精神分析的に言えば人間に宇宙的生成能力を持たせないように去勢しているわけだ。
こうした対照的な働きを持つ天王星と海王星を等化させてくるのが冥王星の役割だと考えられる。であるから、当然、冥王星は天王星が持った働きと海王星が持った働きを相互変換してその対称性を形作る精神の働きをもち、天王星の力によって反動的生成を行っていた人間の意識活動を宇宙的生成の領域へと連れ出して行く働きを持っていることになる。ニーチェ風に言えば、これは価値転換の境位をもたらしてくる永遠回帰の象徴力である。OCOTがなぜ自らを冥王星の意識体と名乗ったのかという理由がここで明らかになってくるのではないだろうか。
「オコツトトハ、メイオウセイニカンヨスル、シリウスノチョウセイシツデス。コノコウシンハ、スベテ、シリウスカラノソウサニヨッテ、オコナワレテイマス。シリウスノ地球人ヘノ関与ハ、メイオウセイノ近日点通過時カラ始マリマシタ。太陽系ノ最終構成ノタメニ、地球人ノ意識ニ進化ヲ生ミ出スコトガ、ソノ目的デス。シカシ、プレアデスガ作ル強力ナ付帯質シールドノタメニ、アナタガタノ意識ガ働イテイル位置ニ、ハーベスト・ビーコンヲ焦点化サセラレズニイマス。」(『2013: 人類が神を見る日/アドバンストエディション』p.22)
OCOTは人間の意識が顕在化を起こしていく領域のことを「シリウス」と呼んでいるが、ケイブコンパス上の意識流動の構成から見て、冥王星とシリウスが極めて深い関係にあることもここで朧げながらも見えてくる。
——ケイブコンパス上に冥王星と惑星X
冥王星と惑星Xは内惑星系で説明した太陽と火星と同じく、前半部と後半部で二つの異なった働きを持っている。
■3、大系観察子Ω11~Ω12前半………冥王星と惑星X(真実の人間における定質と性質)
●冥王星=Ω11前半………ヒトの精神の等化
ヒトの精神の対化の等化を行う(ヒトにおける「精神の等化」という)。ヒトの精神の対化の等化とは大系観察子のΩ7とΩ*7を同一化させるという意味で、Ω9のヒトの思形によって働かされていた人間の意識の領域であるΩ8(Ω2→Ω4→Ω6→Ω8)をΩ*7(Ω*1→Ω*3→Ω*5→Ω*7)へと変換させていくことを意味する。図7からも見てとれるように、これは他者側においての人間の意識に顕在化を起こさせる力となっているのが分かる。先手として働いていた人間の内面の意識の流れを外面*の意識の流れを先手側に持つように変換し、新しい次元におけるヒトの精神を形作っていくということである。ヒトの意識が意識進化によって新たなヒトの次元を創成させるという意味では、冥王星は人間の意識の覚醒を二度経験した力とも言える。つまり、冥王星は二度目のヒトの次元の生成を行う力となっているということだ。ヒトの対化を合わせ持っているという意味で、冥王星が作り出す次元は「ヒトの総体」とも呼ばれる。
●惑星X=Ω12前半………ヒトの精神の中和
ヒトにおける精神の等化が対化として生み出されたときに、その相殺で付帯質として生み出されてくるもの。覚醒期においても覚醒を行うことができない人間の意識次元の総体性を意味すると考えてよい。Ω8とΩ*8を合わせ持った次元。Ω10のヒトの感性によって働かされていた人間の無意識領域であるΩ7(Ω1→Ω3→Ω5→Ω7)をΩ*8(Ω*2→Ω*4→Ω*6→Ω*8)として顕在化させていくことを意味する。
■4、大系観察子Ω11~Ω12後半………冥王星と惑星X(真実の人間における定質と性質)
●冥王星=Ω11後半………真実の人間の定質
反対側の次元における思形=Ω*9を作り出すことによって、新しい人間の意識次元を作り出す働きを持っている。精神の進化はこれによってヒトの思形と感性(Ω9とΩ10)を等化し、次元総体(次元の対化)を支える定質の力となる。このΩ11の全体性を真実の人間の定質と呼ぶ。
●惑星X=Ω12後半………真実の人間の性質
反対側の次元における感性=Ω*10を作り出すことによって、新しい人間の意識次元の方向性を潜在的に変換する働きを持っている。これによってヒトの思形と感性(Ω9とΩ10)の中和が生まれ、次元総体の反映を生み出すことになる。このΩ12の全体性を真実の人間の性質と呼ぶ。
4月 30 2009
『ラス・メニーナス(侍女たち)』――人間型ゲシュタルトの起源、その5
2、第二の軸――窓からの光線、もしくは左と右
絵は右端のところで、寸のつまったパースベクティブにしたがって表象されている窓から、光を受けている。見えるのはほとんどその窪みだけだ。だからその窪みが大きく拡げている光の流れは、交叉しているとはいえ、一つには還元しえぬ二つの隣りあった空間を、同じようなゆたかさをもってうるおすのである。画布の表面とそれが表象している立体的空間(すなわち画家のアトリエ、あるいは彼が画架をおいたサロン)、そしてその表面よりも手前の鑑賞者の占めている現実の立体的空間(あるいはモデルのいる非現実の座)をだ。(M・フーコー『言葉と物』p.30)
言うまでもなく、「前」と「後」は向かい合う自他においては相対的な方向である。この二方向によって画家とモデルとの間には合わせ鏡のシステムが完成する。王の眼差しが画家を包み込み、またその包み込まれた画家の眼差しが今度は王を包み込む。〈見る/見られる〉のキアスムが織りなす無限の入れ子構造。。。当然、ここでは王も画家も互いが描き手であり描かれ手であるという二つの立場を兼任することができるのだが、自分がどのように描かれているのかモデルの立場ばかりに注意を向けていれば、たちまち筆の方はストップし描く行為の完遂はおぼつかないものになる。これは鏡像同士が共存している空間が持った特質である。そこでは王と画家双方の意識の流れはすべて鏡像間に敷設されるナルシシズム的回路側へと回収され、鏡像であり続けることの快楽と苦痛のバランスの中でのみエネルギーは循環することになる。
問題はこうした二つの鏡像が共存している空間がどこから見られているのかということだ。そのヒントがこの「窓から差し込む光」に隠されている。
右からは、目に見えぬ窓をつうじて、どのような表象をも目に見えるようにする光の純粋な立体空間があふれでる。左側では、あまりにもはっきりと目に見える横糸のむこうがわに、そのささえている表象を巧みにかわす表面が拡がる。光はその場面(部屋と画布、すなわち、画布のうえに表象された部屋と画布の置かれている部屋のことを言いたいのだが)ななだれこみ、人物たちと鑑賞者をつつみ、画家の視線のもとで、画家が彼ら表象しようとしている場所へと彼らを押し流していく。(M・フーコー『言葉と物』p.30)
方や画家として見つめられ、方や王として見つめられている世界を同等に照らし出すこの窓からの光は同時に窓から入射してくる視線として解釈し得ないこともない。誰がこの窓からこの絵の中で起きている出来事、ならびにその情景を覗いているのかは分からないが、その眼差しにおいては、紛れもなく画家と王は単なるモデルでしかなくなるだろう。この視線においては両者の合わせ鏡の構図はすでに消え去っており、単に王と画家、二人の人物が向かい合っている状況が表象化されるだけである。
この視線は互いの主観(実際の視野風景)からは超越した視点から放たれているものであり、二人の人物をともに「見られるもの」として対等な存在であると判断する第三者的な視線である。また、この視線はこの部屋の中にいる、侍女や召使いたち、他の誰の主観をも照らし出しているものではないという意味で、この部屋の中全体を満たす視線の秩序を調停する第三項的な視線、すなわち神の視線と言っていいものになる。部屋の中にいる人物たちの主観的空間の全体性を連続体として仮構させるという意味で、この光の介入は客観的視線の介入とも見なせるだろう。客観は実際には目に見えないものであるがゆえに言語的である。実際、言語とは現実には見えないものをあたかも存在しているかのように見せる能力を持っている。世間、世の中、外界、社会、国家。こうしたものはすべて言語の働きが中心となって作り出されている生成物である。そして、ここで重要なことは、この画家に介入してきた第三の眼差しは王と画家(部屋の中にいるすべての人物を含めてもよい)が想像のうちで形作っていた光と影のコントラストを表象のうちに明確化させてくるということだ。ここでいう光と影のコントラストは善と悪の判別化にも対比できようし、知性と情念の区別化にも喩えることができるだろう。この光と影の対比はカラヴァッジョやレンブラントといった他のバロック期の画家たちの作品に見られる共通する特徴でもある。下「聖マタイの召命」カラヴァッジョ1600年頃作。
* * * * *
ちょっと回りくどい言い方になったが、ヌーソロジーでは『時間と分かれる50の方法』で説明したように、身体における前後方向を4次元として見なしている。「前」が空間としての4次元であり「後」が時間としての4次元である。そして、このときの前側としての4次元を4次元空間上で回転させた全体(この回転は無数の身体における前の集合という意味合いになる)を一本の線分と見なすような方向が5次元空間の方向性として解釈される。ヌーソロジーが主張する5次元世界への侵入とは、言い換えれば、誰の主観(前)でもなく、かつ、すべての個体の主観(前)でもあるような視座へと視点の位置を持っていくことであり、これは俗にいう客観(超越)の発生地点を知性が明らかにするということに他ならない。観察するものに対して直交性を持つというのがヌーソロジーにおける観察位置の条件だった――これを使って主観が生まれる場としての主体を3次元空間の内部から4次元へと牽引するのがヌーソロジーの思考方法の第一段階であったのだが、同時に、今度はその4次元に位置する主体を主観そのもの世界からさらなる高みへと退却させる方法論にもこの直交性という考え方を適用してみてはどうか、というわけだ。
難しいことを言ってるようだが、これは単に認識の視線を前-後方向から左-右方向へとシフトさせる、ということの意味にすぎない。われわれが無意識のうちにいつもやっていることだ。もちろん、ここでいう左-右方向とは誰かの前後方向にあたる方向ではないことに再度、注意しておこう。主体が誰かの「前」へと視点を移動させることは4次元空間内の回転であって5次元には到達しない。5次元へと垂上するためには、個々の主観位置から「誰かの」ではなく、いかなる人物の前後でもないような、つまり、そこを「前-後」と見ているような個体はどこにも存在していないような空間概念を新たに創成させる必要があるということだ。
おそらく、この文章を読んでいる人たち誰もが各々の意識の中に左右からの視線を入射させる技術を持っているはずだ。その視線は、君と君の目の前にあるパソコンとの間にある空隙を認識し、その距離が何cmあるかまで言い当てることができていることだろう。もし、パソコンを挟んでその向こう側に君の友人がいるならば、その視線はパソコンを中央に対峙している君と君の友人の姿を二人の全く同等の人間として眼差しているはずである。僕がいつも向かい合う自己と他者の図を書いている視座もこの第二の観察軸とも言える左-右方向からの認識の介入があってこそ作図可能となるわけだ。
4次元や5次元というと、一気に謎めいた気分になって、神秘主義や宗教の言葉を借りて説明したくなる気分に駆り立てられるのだが、そうした誘惑はここでは潔くシャットアウトしなければなない。というのも、われわれの通常の意識自体がこうした高次の空間の関与がなければ働くことは不可能なのであり、普通、3次元認識と呼ばれる意識の在り方にもその背後ではこのようなより高次の空間の位置からの観察力が暗躍していることをヌーソロジーは主張したいからである。その意味で、ヌーソロジーが語る4次元や5次元という世界はこの時点ではまだ霊的体験や至高体験とは直接の関係を持つことはなく、それはつまるところ単に身体における前後方向とそれに左右方向が加わった地上的空間に他ならない、ということになる。
こうした高次元解釈が退屈なものに思えるか思えないかは思考者それぞれのセンスに委ねられてくるだろうが、このように意味づけされていった高次の空間が素粒子世界や重力場といった物理空間と深く関係してくるとすれば、これほどスリリングな展開はない。なぜなら、それは人間の意識の在り方と現代物理学が説く宇宙の始源とを一気に接続させてくる可能性を臭わせてくるからである。OCOT情報に見出す価値があるとすれば、彼はまさにその関係性の数々について無数の示唆を与えてくれているところにあると言ってよいだろう。そして、その難解な示唆群を何とか一般的な思考の対象にまでに具体化させて相互了解可能なものへと作り上げていけば、われわれは宇宙の発生起源について、従来の科学や宗教を超えた観点からの思考(これがヌーソロジーにいう「noos」本来の意味なのだが)の誕生を、まさにわれわれ自身の中に発見することになる。
――つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ラス・メニーナス • 0 • Tags: フーコー, ラス・メニーナス, 人間型ゲシュタルト, 素粒子