10月 12 2025
科学の前提 — 「あるもの」の絶対視
科学的認識とは、基本的に
光が物体から発せられる
or
反射する → 目に届く → 脳が処理して像を作る
——という“他者視点で構成されたモデル”のうえに成立している。
つまり、最初から最後まで、「あるもの(=物体、光子、神経、脳)」の系列で世界を語っている。
このモデルの最大の欠点は、「見る」という現象の“現前性”そのものを語れないことにある。
よく考えてみよう。
私が「見ている」という感覚、
世界が「開いている」という出来事、
色や奥行きや質感といった“意味としての感覚世界”、
これらはすべて、「いる」ものの世界に属している。にも関わらず、科学はそれを「ある」ものから推定しようとしている。
これはまるで、影を使って光の源を論じるようなもので、
いくら精緻な数式や計測機器を積み上げても、「現象の出現」という原点には辿り着けない。
なのに、なぜ科学はその限界に気づかないのか? ここが大事なところ。
まず、“客観的”という前提が、すでに他者視点化された世界であることに気づいていない。
「見ること自体」がすでに他者の目で見ているようなモデルで語られている。
つまり、“見るという出来事”そのものを対象化しようとするから、“見る以前”にある“立ち上がり”に触れることができない。
結論としてこう言える。
科学は「光の物理」を説明できても、光に出会っている“私”を説明することができない。
見ることは、光を受け取っているのではなく、光が“私”を立ち上げている出来事なのだ。
それは、「あるもの」の連鎖の果てには決して現れない、「いること」の始源的事件である。
新しい時代の思考は、そこから開始されるべきだ。
10月 13 2025
「見ること」の転回 — 表象の彼方へ
私たちは、世界を見る。
この一文を疑う者は、ほとんどいない。
けれど本当にそうだろうか?
「見る」という出来事は、本当に“私”から始まっているのだろうか?
フッサール現象学は、この問いに真正面から挑んだ。
世界が“そこに在る”のではなく、“現れる”ものであること。
意識が世界に向かう志向性こそが、“意味の生成”の源であるとした。
その試みは、「世界があることの驚異」への強靭な哲学的応答であった。
しかし、見るという行為が「志向性」に還元されたとき、
それは意識という容器のなかに閉じ込められる。
どれほど世界の“現れ”を記述しても、
それは“誰かが見ている”という前提を超えない。
見ることの現象性は、つねに“主体の裏影”として記述され続ける。
この欺瞞を、ドゥルーズは見抜いた。
彼は言う。表象の空間には差異が欠けている——と。
“誰が見るか”という問題を問うことなく、“何が見えたか”を語るだけなら、それはつねに主体の影の中で回る自己同一性の演技に過ぎない。
見ることの根源には、“自己の誕生すら引き裂く力=差異”があるのだと。
ヌーソロジーはさらに、見るという行為を空間的出来事として差異化する。
私が見るのではない。
世界の深奥から、「見よ」という声が響くとき、
その呼びかけが私を“観測者の位置”へと生成するのだ。
このとき、目とは単なる器官ではなく、
「無限遠点から私を貫く奥行きの軸」そのものになる。
ここで言う奥行きとは、三次元的な遠近のことではない。
それは、空間の表象が生じる以前に私を“開いてしまった”空間、
すなわち、次元観察子ψ3の位置、4次元目の前側軸である。
現象学がいまだ表象の残滓を拭い去れなかったのは、
「見るという出来事」の始源性を、意識の働きとしてしか捉えられなかったからだ。
しかし、ヌーソロジーは見ることの始源を、“位置の生成”として空間的に取り戻す。
意識が意味を与えるのではなく、
意味の地平が、私の“見ること”を生成していた。
それは、主体が世界を立ち上げるのではなく、
世界が、私を“観測者”として差し出していた、という反転である。
この反転こそが、
見るという出来事を“存在の側”へと返し、
そのまなざしの奥に、
差異そのものが語りはじめる場所を開く。
そして、私たちはようやく次のように問えるようになる。
「私は、どこからやってきたのか?」と。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, フッサール