9月 27 2025
主観空間の正体について
あなたの「見る」という行為は、
本当はあなたの意志ではなく、
空間そのものがあなたに“見る位置”を与えている結果にすぎない。
そう考えたとき、
空間とは「外界の拡がり」ではなく、
「私であることの場所」そのものとなる。
主観空間とは、“私が見ている空間”ではない。
それは、“私という存在が形を取るための、見えない舞台装置”である。
それがわかったとき、
私たちは初めて、
「自己がどこから生まれているか」に触れはじめるのだ。
私は生まれてこの方、一歩も動いたことはない。
どうか、この表現が何を意味しているのか、しっかりと考えてほしい。
「動かない私が、すべてを動かしている」
なぜ私は、
どこへ行こうが、
何を見ようが、
“私”でいられるのか?
それは、
私が——
一歩も動いていないからだ。
身体は動く。
視界は変わる。
時間は流れる。
けれど、
そのすべての運動を、
私の内なる何かが、正確に“相殺”している。
私は、
動きながら、動いていない。
世界は、動きながら、私を不動のままにしている。
この逆写しの運動。
この、空間の中心でただ不動を守り続ける力。
それこそが、
「私が私である」ことを保証している。
それは、存在に打ち込まれた、
自己という名の楔(くさび)と言ってもいいものだ。
そして・・・
その逆写しの運動の正体こそが、
物理学が「ゲージ対称性」と呼んでいたものだった。
——それが見えたとき、
私は、文字通り、空間の中に溶け入った。




11月 25 2025
語りの主体は空間へと・・・
私たちは今、この瞬間にこそ、言葉を通して世界を見ているという「慣れ親しんだ知覚の構図」を、静かに、しかし確かな決意をもって、反転させなければならない。
もはや、言葉で世界を“意味づける”ことではなく、空間そのものが、私たちの知覚を通じて“語りはじめる”ことが求められている。この反転の地点こそが、ヌーソロジーが名づけるところの「空間構文」の領域というものである。
この空間構文は、哲学が長きにわたり模索してきた「超越論的意識」と深く共鳴している。カントやフッサール、メルロ=ポンティが言う「経験以前の条件」──すなわち、意識が世界を経験するための“場”や“地盤”を探ってきた営みと、空間構文はほとんど同じ射程にある。
しかし、ヌーソロジーの空間構文には、哲学的超越論とは根本的に異なる特徴がある。それは、言語と知覚の関係を、単なる主体-対象の関係として捉えるのではなく、自己と他者という二重の内在構造として再編成し、その関係そのものを“空間的な幾何学”として記述していこうとする姿勢だ。
つまり、空間構文とは、「世界が今のようにある」以前に──私たちが“どこにいて”、誰の“中”に存在しており、その空間がどのように折り重なり、どのようにして差異を保持し、他者と交差しているのかを、純粋な構文として浮かび上がらせるための建築行為なのである。
しかも、ヌーソロジーはこの幾何学的な空間構文に、さらに物質の“火”を注ぎ込む。それは、この空間構文の幾何に、素粒子構造──つまり、クォーク、レプトン、ゲージ対称性といった物理的基底の秩序を重ね合わせていくことで、空間そのものに発火(ignition)や発振(oscillation)を起こさせる、というものだ。
そのとき、空間はもはや“背景”ではなくなる。言葉の舞台ではなく、言葉の“発生源”となる。そして私たちが生きるこの世界は、語りうるものではなく、“語り出すもの”そのものになるだろう。
空間が語り——
空間が歌い——
空間が踊る——
世界とは本来、そのようなものでなければいけない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カント, クォーク, ゲージ対称性, フッサール, メルロ=ポンティ, レプトン, 空間構文