10月 22 2025
ψ6/Ψ5と記憶の関係
⚫︎ψ5の記憶:持続の核における「非時間的な記憶」
ψ5の記憶は、時間の中を移動していくような記憶ではありません。むしろ、「今この瞬間」に全体が“濃縮”されているような、一挙的・凝縮的な記憶です。
例えば、ある懐かしい場所に行ったとき、なぜか“過去すべてが一気によみがえる”ような経験。
ある曲を聞いた瞬間、言葉にならない“記憶の重なり”が一気に胸に溢れてくるような経験。
これらは「時間をたどって」思い出しているのではなく、
“記憶そのものが、今の中に全体としてある”という形で感じられているはずです。
これがψ5的な記憶=持続の核の記憶です。これはベルクソンのいう「純粋持続」に非常に近いです。
⚫︎ψ6の記憶:時間発展における「展開的な記憶」
一方ψ6では、記憶は時間の流れの中で思い出されていく形になります。無数の個別の記憶(ψ3〜4)が因果を持って流れていくイメージですね。つまり、「あのときこうだった → その後こうなった → そして今がある」というように。直線的な因果の展開の中に組み込まれた記憶です。
例えば、1日の出来事を順に思い出す、とか、ある出来事の原因と結果を考えるとか。このような記憶は、順序性を持ち、時間の座標軸に沿って配置されているのが分かります。
ψ6の赤道円は、量子力学における時間発展演算子(e^{-iEt})に対応していて、ここでは「ψがどう変化していくか」が追跡されている。つまり、記憶の運動の方が重視されている感じです。
⚫︎和音とアルペジオ
つまり、ψ5の記憶が“音楽の和音”だとすれば、ψ6の記憶は、その音符の一つ一つを順番に鳴らしていく”アルペジオ旋律”のようなものですね。
NCでもう一度、ψ5とψ6の反転関係を通して、時間のあり方を確認しておくといいと思います。





10月 23 2025
厳密さよりも、視点の変換を!!
ヌーソロジーをやっていて、つくづく思うのは、あまりにも私たちが物質概念にしがみつきすぎているということ。
例えば——素粒子は本当に「モノ」なんだろうか?
現代の物理学は、とにかく数学に強くなった。公式、関数、行列、空間の次元、ゲージ対称性・・・。言葉より数式。イメージより定理。でもその結果、素粒子の姿が、どんどん見えにくくなっているのではないか?
量子力学も、相対論も、ものすごく成功してきた。けれど、いま私たちが“素粒子”と呼んでいるものって、いったい何を見て、そう呼んでいるのだろうか?
電子も、クォークも、ニュートリノも、数式の中ではたしかに動いている。でもそれって、世界の本当の姿なのか?
もしかすると「素粒子とは、空間の中にある“点のような物体”だ」という考え方自体が、数学という言語が作った一つの“見え方”にすぎないのではなかろうか?
最近は、心底、そう思えてならないのだ。
もしそうなら、もっと“見る”ということ自体を問い直してもいいはずなのだ。素粒子とは、「ある」のではなく、“世界が私自身を見せてくる時の、魂の小さな震え”のようなものではないのか。
この震えを自分と別物のように見ていては、いつまで経っても、素粒子は物質(対象)のままだし、世界もまた自分の外にある怪物のような存在になってしまう。世界とのこんな関係は悪夢であり、それこそ迷路ではないのだろうか。
理性一辺倒の一つ目であるが故に、迷路に入り込んでしまった科学を、もう一度、私たちが実際に“感じる場所”から立て直す。そんな考え方を通して、素粒子を見ることも、そろそろ必要ではないのか?
その意味で言えば、いわゆる専門家よりも、むしろ、一般人としての私たちの方こそが、素粒子に対して正しい捉え方、理解ができるような気がしてならない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 素粒子, 量子力学